甲(優越者)の横暴を「カプ(甲)ジル(悪い振る舞い)」という。それがどんなに醜く卑劣なものかは、甲のカプジルにさらされた乙(劣等者)にしかわからない。ところが、甲乙関係の本当の悲劇は、甲のカプジルにあるというより、カプジルを受けた乙が自分より弱い丙にカプジルと変わらないウル(乙)ジルをするということにある。丙はまた、自分より弱い丁にカプジルやウルジルと変わらないピョン(丙)ジルをする。
こんな食物連鎖の関係を最もよく体現しているのが、驚くべきことに、まだ甲乙関係の本格的な現場に飛び込んでいない大学生たちだ。事前に練習でもしようとするのだろうか? 社会学者オ・チャンホ博士が出版した『私たちは、差別に賛成します:モンスター化した二十代の自画像』は、大学生の「大学序列中毒症」を告発している。大学生との自由な会話に基づいた愛情のこもった告発だからこそ、怒りではなく、憐憫の情を催す。
オ博士は、大学の偏差値が大学生の生活を支配していると言う。全国の200大学を縦に並べ立て大学間の序列を問うのはただ楽しみのためではない。非常に真剣で深刻な認定闘争であり、生存闘争である。序列が一つか二つ違う大学を「似たような大学」として一括りにしようとすると、その瞬間、序列が少しでも上だとされる大学の学生は、「とんでもない話だ」と興奮する。このような現実についてオ博士は次のように述べる。
「今の大学生は修学能力試験(センター試験)の点数の違いをすべての能力の差にしてしまうような考え方をする。十代のただ一日の学習能力の評価で一生の能力が断定される、ばかばかしくて不合理なシステムを問題視する目すら備えていないのである。皮肉なことは、自分が受けた人格的な屈辱を晴らすため、自らこの方法を(人に)使うという点だ。彼らは、より“高い”ところにいる学生が自分を蔑視することに問題を提起するよりも、自分よりも”低い”ところにいる学生を蔑視する方を選ぶ。そうやって蔑視は合理化される」
大学生たちのこのような精神状態は、私たちの社会(韓国)から甲乙関係と非正規職差別が消えるどころか、今後さらに猛威を振るう可能性が高いことを物語っている。オ博士の言うように、今日の二十代は「不当な社会構造の『被害者』だが、同時に『加害者』としてそのような社会構造の維持に加担する存在」となってしまった。このすべてが完全に親や祖父母世代の責任であるという点では、比較的に楽な時代を生きてきた世代の一人として、彼らに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
大学生の「大学序列中毒症」は、米国で行われた「能力主義」(meritocracy)の議論を思い出させる。今日の米国の深刻な貧富の格差を正当化する主なイデオロギーがまさに「能力に応じた差別は正当なだけでなく、望ましい」とする能力主義だ。能力は、主に学歴と学閥によって決められる。しかし、高学歴と良い学閥は親の経済力に依るよるところが大きい。学歴と学閥の世襲は、能力主義社会が事実上以前の貴族社会と変わらないとことを大いに物語る。
このような韓国型「世襲資本主義」を変えるのが第1の改革アジェンダになるべきだが、私タ誰もがある程度持っている「わずかな違いへの執着」も省みる必要がある。修能の点数とか正規と非正規職の能力差は些細なものにもかかわらず、私たちはそのような違いに大きな意味を付与しながら、それに伴う差別に賛成するのが正当な能力主義だと信じる傾向があるからだ。
韓国は平等主義が強い社会だと言うが、平等主義は、上に向けてのみ発揮されるだけだ。下に向かって差別を叫ぶダブルスタンダードの平等主義は真の平等主義とは言えない。このような平等主義は私たちすべてを被害者にする。私たちが「わずかな違いへの執着」をする限り、そのシステムは続く。 50年前詩人キム・スヨンが「なぜ私は小さいことだけに憤慨するのか」と問いかけたように、今、私たちも自分に問いかけなければならない。私たちがわずかな違いに執着して、その差異の正義が実現されないことに憤慨している間、世界はますます取り返しのつかない巨大な構造的不平等と差別の奈落に落ちていくのではないか?
韓国語原文入力:2014.12.14 18:46