原文入力:2009-01-30午後08:14:04
キム・イルジュ記者
←1960年代軍事政権は課外授業を禁止したが課外授業は続いていた。1967年釜山では学校外での勉強を終わらせ夜遅く帰宅した小学生が殺害されたりしたし、ほぼ同じ時期にソウル,徳寿小学生4人が家出する事件が広まったりもした。 人物と思想社提供
<入試戦争残酷史>カン・ジュンマン著作/人物と思想社・1万3000ウォン
カン・ジュンマン教授 ‘大学入試戦争’ 歴史を突く
“日帝時代に広がった教育救国運動
個人・一族繁栄の道具に変質”
ソウル大・延世高麗大 小数精鋭化 主張も
‘悔しかったら出世してみろ!’
健康な社会ならば ‘悔しければ正そう’ とならなければならないでしょうが、‘悔しかったら出世して見ろ’という言葉が韓国社会でははるかに説得力あるようにまかり通る。‘出世’という概念が今日のような意味で使われ始めたのは日帝が親日派知識人を積極的に育成した1920年代中盤からだったという。日本から‘出世’という用語が輸入され‘世俗人が僧侶になるために家を出る’という本来の意とは正反対の意、すなわち‘世俗的成功’という意味が当時新しく加えられた。国を奪われた植民地の民が‘立身出世’の‘揚名’代わりに選んだのが‘出世’であった。1924年開校した京城帝国大学に通ったごく少数の朝鮮人学生たちは植民地の高等官僚に進出するために考試熱風に情熱を傾けた。解放後、駐韓米国大使館で文政官として働いていたグレゴリー・ヘンダーソンは<渦の韓国政治>で「日本人たちは公式に高等教育を拡大した官僚機構の高速道路として利用し、さらに自分たちが独占したがそれがむしろ朝鮮人らの食欲をかきたてる役割をした」と書いた。
すでに朝鮮時代初期から科挙試験の出世道具化と息子の出世を存在根拠とする母親中心の‘子宮家族’基本構造は社会の本質に敷かれていた。この土台の上で、日帝植民地時代に広がった教育救国運動は個人と一族の繁栄のための各個躍進運動に変質した。日帝強制占領期と米軍占領期を経て、また朝鮮戦争を体験して‘教育出世論’は韓国人らの骨に深く刻印された。伝統的支配勢力とこれを支えた社会構造が崩れ学歴を備えた人々の階級が垂直上昇するのを見て、学歴と学閥が解放後の親日経歴にも免罪符をあげる強力な盾の役割をする事実を目撃して、蓄えておいた財産が戦争で破壊され略奪されても学歴だけは完全であることを再確認した結果、1960年代に入り“良い学校に入ることが事実上の階級闘争であり権力闘争”となった。教育政策も徹底的に‘一流’中心に戻った。
1970年代には“学歴と学閥で気を殺し既存体制に対する抵抗を無力化させようとする試み”が露骨に広がった。‘コンドリ(工員)’,‘コンスニ(女工)’と呼ばれ侮蔑感を飲み込んだ‘学べなかった’労働者たちは弾圧を糾弾するビラを出す時も“習うことができなくて知っていることはないが不正と妥協できなくて…”として何時の間にか教育を受けることが出来なかった人は教育をたくさん受けた人に服従しなければならないという教育イデオロギーを内面化させていた。1980~90年代を経て入試戦争はより一層残酷になった。 ‘一人暮らしの父’,‘ペンギン パパ’が登場する2000年代にも状況は漸次佳境に入るのだった。
こういう状況では社会全般の問題解決意志と能力が顕著に落ちる。 政治も同じだ。“私教育過剰と入試戦争は政治を無意味にさせる。 大衆は政治という‘公的解決方式’の代わりに各個躍進式の‘私的解決方式’を選び政治に関心と時間を投資しないためだ。”
<入試戦争残酷史>
カン・ジュンマン全北大教授が書いた<入試戦争残酷史>はこのように韓国社会の狂人的な教育熱風と入試問題の原因を歴史的に突きながら“すべての問題の根本は大学であり入試戦争と私教育はその症状に過ぎない」と主張する。彼は韓国で最も激しい階級闘争は労働運動ではなく大学入試戦争であり、その原因はいわゆる‘SKY’出身者が社会の要職を独占するところにあると指摘する。これはカン教授が1996年に出した<ソウル大学の国>をはじめ、この間多様な媒体を通じて何度も主張してきたことだ。彼はそれに加えて自身の主張が今まで‘ソウル大廃校論’と誤解されたと指摘しソウル大と延世大,高麗大の定員を段階的に大幅に減らし小数精鋭主義にしようと提案する。各分野のエリート出身大学構成を多様化すれば、大学序列に流動性が生まれ大学入試戦争の熱気を大学に入った以後に分散させることができるということだ。
こういう主張が根本的解決策になりえないという批判に、彼は‘オール オア ナッシング’式の原理主義的対応がむしろ学閥主義緩和を‘下向平準化’と批判する典型的エリートらの主張を強化しているとし、現実的な解決策を出す必要があると強調する。
キム・イルジュ記者pearl@hani.co.kr