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[社説]ソウル大学「セクハラ教授」事件が語ること

登録:2014-12-06 05:55 修正:2014-12-06 07:20

 ソウル大学のカン・ソクチン教授が教え子らをセクハラした疑いで3日拘束されたことは我々(韓国)の社会に重い警鐘を鳴らす事件だ。最高の知性の殿堂とされるソウル大でいわゆる“甲乙関係”(立場の上下関係)を悪用した性犯罪が行われたという自体が恥ずべきことだ。さらにふとどきなのは、それらは数十年間当たり前のことのように繰り返されていたという事実だ。

 偶然にも韓国社会に「セクハラ」という言葉を初めて刻んだ事件もソウル大で起きている。指導教授からセクハラにあったウ助手が損害賠償請求訴訟を1993年に起こして、社会的な波紋を呼び、1審と2審の判断がくい違って多くの論議をかもしたあげく、大法院(最高裁)が5年かけてウ助手の訴えを認めた。性犯罪の概念が新しく認められる契機になった。ところがあれから20年余りたった今、既視体験かと見まがうようなまったく同じようなことが行われていたのだ。もちろんソウル大だけの問題でない。最近も高麗大と江原大で似たようなことが行われている。

 元国会議長までセクハラ疑惑で裁判にかけられるなどパワハラタイプの性犯罪が頻発し、社会的権力を悪用して欲望を満たそうとするゆがんだ心理が非難されている。いわゆるエリート コースを歩んだ人が“乙”の立場の人に対する共感意識に欠けるという指摘もされている。このような判断は妥当な面があるが、個人だけのせいにして済むものではない。法の壁を破る行為をしても問題にならないという心理の背景には非合理的な権力関係が存在しているためだ。いかなる上下関係や取引関係も個人の人格まで支配することはできないという基本原則がまだ我々の社会で機能していないということだ。

 特に大学でセクハラ事件がたびたび起きるのは、大学の根深い病を曝け出す現象だ。学生に対する評価を思いのままにできる教授の万能的な権限が、すべてのセクハラ事件の背景になっている。これは教授と学生の関係が“主人と奴隷の関係”の殻を破れず、大学の学事管理も相変らずのどんぶり勘定に留まっているという意味だ。ソウル大や高麗大などのセクハラ事件が起きた大学が徹底した真相究明の代わりに、辞表を受理して事件にすぐフタをしようとするところに現れているように、教授社会の前近代的な温情主義も問題だ。入試でのランク維持に縛り付けられた大学が本来の教育的、社会的責務は放棄しているのである。

 このような古い風土に口をふさいだまま世界の大学評価でランキングされても何の意味があるだろうか。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2014/12/04 18:41 

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/667523.html 訳T.W(1172字)

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