本文に移動

[キム・ドンチュン コラム] テレビが作り出した二種類の国民

登録:2014-09-30 21:01 修正:2014-10-02 16:11
キム・ドンチュン聖公会大学社会科学部教授//ハンギョレ新聞社

 悲しみと苦痛にもがいているセウォル号遺族たちの前で、暴食をしながら嘲弄したり激しく罵る人々を見て、共感能力を完全に喪失した人間がいることを嘆く。 同じ空の下に生きているとは思えないこの極端な対立は、果たしてどこからきたのだろうか?  私は「セウォル号やめろ」と言う人々が、果たして真相究明を要求する人々と同じ“事実”に基づいて世の中を見ているのかを疑う。 すなわち、私たちが知っている全てをメディアに依存している今日、セウォル号問題に関する極限的対立は韓国社会がテレビの総合編成チャンネルと朝鮮・中央・東亜だけで世相を見る人々と、そうではない人々に分けられたためではないかと思ったりする。

 私は総合編成チャンネルはまったく見ないが、食堂やサウナなど公共の場所でしかたなく見る場合がある。 ジャーナリズムや知識社会では一度たりとも名前を聞いたことのない人々が、突然すごい論客となって放送会社が作為的に作った進歩/保守の両テーブルに出てきて、別に重要でもない議題を長時間にわたって騒ぎたてる場面や、セウォル号事故以後にユ・ビョンオンと救援派の動向をほとんど生中継でもするかのように報道し続けているのを見たことがあるが、それを見てなぜ総合編成だけで世の中を見る人々が遺族攻撃談論に乗るのか若干理解できた。

 フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、テレビは「空っぽでほとんど何でもないもので貴重な時間を代わりに費やさせ、本来見せなければならないことを無意味にさせる方式で“見せ”て、市民が民主的権利を行使するために持たなければならない適切な情報を遠ざけさせる」と述べたことがあるが、彼はテレビが所有主や広告主の視聴率圧迫要求に完全に従属し、権力にとって敏感なイシューは意図的に遠ざけ、重要ではないものを重要であるかのように包装する一種の“象徴暴力機構”だと見た。

 今回の韓国の総合編成チャンネルと地上波も“惨事”を交通事故にしてしまい、政府に対する国民の怒りを他所に向けさせた後、政府や当局の救助責任を見えなくさせた。 セウォル号救助に関連した多くの疑惑に対しては質問すらせず、座込み場の遺族と生存者にマイクを一度たりとも向けずに、彼らがあたかも子供の死を売って我欲を満たそうとしている貪欲な群れであるかのようにしてしまい、遺族たちの代行運転手暴行事件が起きれば、これ幸いとばかりニュースのトップ記事に大書して終日非難し続けた。こういうのを刃物を持たない暴力というべきではないだろうか?

 解放直後に『東亜日報』などの多くの新聞が、米国が提案した信託統治案をソ連が提案したものと歪曲報道し、おとなしくなっていた親日派を反信託統治・反共闘士として復活させ国を敵対的対立へ追い込んだように、あの悪名高い西北青年団が再び現れた現在もその時の状況に似ている。 もちろん8・15直後には一つであった国民が、6か月も経たないうちに敵対的に分裂したのはメディアだけの作品ではなく起死回生を狙った親日政治勢力の工作の疑いがあるように、国民的共感から出発したセウォル号世論を敵対的に二分した主体も、実際にはイメージ操作と虚構的な世論支持度に絶対的に依存する現執権勢力であろう。

 加工されたイメージが“世論”、そして“支持率”となって権力を再生産してきたのも事実だ。 それで李明博政権とセヌリ党は強引な手段や詭弁を動員して総合編成チャンネルの許可を強行したのだろう。 彼らはセウォル号世論を逆転させることに成功したと喜んでいるかも知れないが、共感と合意の基盤の上に立って悲劇的災害防止のために額を突き合わせなければならない国民は爆発直前の二つの敵対陣営に割れ、根本的代案準備作業はさらに遠ざかった。 維新時期に知識人が国内の動きを知るために外国の新聞・雑誌を検索したように、21世紀に生きる今の私たちは日本の『フジテレビ』を通じて沈没直前のセウォル号内でどんなことがあったのかを知るという呆れ返るメディア環境の中に暮らしている。 それで朴槿恵号の韓国は国際社会の笑い話になった。共感を求めるどころか、暴力も辞さないという集団が活発に動いている国にどんな未来があるだろうか?

キム・ドンチュン聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/657605.html 韓国語原文入力:2014/09/30 18:44
訳J.S(1888字)

関連記事