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[朴露子の「韓国、内と外」] ニューライトたちの歴史:出世主義と屈従の教科書!

登録:2013-10-02 16:57 修正:2013-10-03 07:53
イラスト:キム・デジュン
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

今、私の前にあまり厚くない複写本一部が置かれている。6年前、アメリカのプリンストン大学を訪れた際、その図書館でコピーした李承晩の博士学位論文だ。「アメリカに影響された戦時中立の概念」というタイトルの論文で、李承晩は1910年に学位を受けた。あいにく、同じ年に大韓帝国は強占されたにもかかわらず、最近の修士論文の分量(全部で115頁)に当たるこの博士学位論文に「コリア」という国名を見つけることは無駄だ。李承晩は、露日戦争時に高宗の戦時中立宣言が結局は日本の強圧で無効になったことを、6年後の1910年までありありと覚えていたはずなのに、彼の出身国はあの敷居の高いプリンストン大学の研究対象に上るには、彼に甚だみすぼらしく映ったようだ。これとは対照的に、アメリカに対する叙述は賛美一色だ。「アメリカの独立宣言は万国の平和を増進し貿易の自由を奨励し、特に戦時中立の権利と義務などに関連し国際法の原則を拡張させる新しい国家の誕生を告げた」(14頁)。「万国の平和を増進させるアメリカ」など、お世辞にしても度が過ぎるのではないか。李承晩がこの文を書いた1910年は、1899年からアメリカに強占されたフィリピンでまだパルチザンたちが征服者との戦いで血を流していた。国際情勢に特に詳しかった李承晩がこれを知らなかったはずがないのだ。

若き日の李承晩にはフィリピンのパルチザンのみならず、祖国のパルチザンたちも異質な存在だった。李承晩は大韓帝国の強占に積極的に協調したアメリカの外交官ダーハム・スティーヴンスを1908年に狙撃した張仁煥、田明雲二人の独立運動家の裁判のための通訳を断ったことがあった。

しかし、若き日の李承晩にはフィリピンのパルチザンのみならず、祖国のパルチザンたちも異質な存在だった。李承晩は大韓帝国の強占に積極的に協調したアメリカの外交官ダーハム・スティーヴンス(Durham White Stevens)を1908年に狙撃した張仁煥(1876~1930)、田明雲(1884~1947)たち二人の独立運動家の裁判のための通訳を断ったことがあった。「キリスト教徒として殺人者を弁護することはできない」ということだったが、これが言い訳にすぎなかったことはよくわかる。彼がキリスト教平和主義者だったなら、なぜその学位論文では、たとえば米国フロリダのセミノル族に対する侵略戦争を「必要な戦争」として肯定的に描くことができようか(46~47頁)。実際は、それがルーズベルト大統領と親しかったほど影響力のあった白人を射殺した二人の「有色人種」は単に重荷にすぎなかったからだ。彼はそのような「テロリスト」を連想させない「名誉白人」になりたかったのであり、まさしくそれと同じ理由で1909年の安重根(1879~1910)の義挙さえも批判的に見ていた。「コリアはテロリストたちの民族」という話がアメリカの新聞を満たすことになれば、自分のような若い日和見主義者たちの主流社会へ編入が難しくなる、これだったのだ。

日和見主義精神とともに、当時のアメリカで李承晩に見られたもう一つの特徴は、出世のためなら手段と方法を選ばないその驚くべき手腕だった。たとえば、彼の博士学位論文の注釈と参考文献を見れば、英語の著書のみならず、プランス語や甚だしくはイタリア語(!)の著書までも入っている。李承晩は獄中(1899~1904)で英語の勉強に専念しており、アメリカでの長くもない留学生活では常にバイトなどに追われていながら難渋きわまりない国際法の著書をフランス語で読めるほどフランス語を独学したはずがない。またジョージワシントン大学(学士)やハーバード大学(修士)などにおける李承晩の学籍簿によれば、プランス語を勉強した形跡はどこにもない。ということは、従来の英語の概説書を適当に孫引きしながら、本人はろくに読めもしない本まで参考文献に挙げるというでたらめな研究で同胞の間から「博士」としての権威を得ようとしたと結論を出さざるをえないようだ。もちろん、今日も出世を目指して欧米留学の雄途に就く人々が後を絶たないため、ことさらに李承晩が特別だったと見ることはできない。特別だったとすれば、「成功」街道を突っ走るその勢いくらいだっただろう。

この非凡な日和見主義者が後に様々な縁や契機のめぐり合わせでアメリカの軍事保護領としての南韓の大統領にまで上ったため、保守的な史学は彼を徹底的に「再誕生」させることになる。「教学社の教科書」の類のニューライト系書籍を見れば分かるように、彼の若き日の曲学阿世、白人社会に諂う態度、積極的な独立運動に対する敵対感などはどこ吹く風で、ひたすら「愛国の化身、大韓民国の国父」のみが残るのだ。北韓における金日成に劣らず、彼は「民族の太陽」などとして蘇った。実は、1950年代に彼に諂う知識人とメディアは彼をまさしくそのように呼んでもいた。そうする位置にいた人々に1950年代は黄金時代だったが、一般の人々には李承晩治下は映画「誤発弾」に描写されていたような窮乏と絶望感に満ちた時代として記憶されている。

ならば、ニューライトたちは多くの歴史の記憶の地形図までむりやり無視しながら李承晩のような人物をほとんど北韓並みに神格化する理由は何か? 多くの韓国人に汚点としてしか認識されない朴正煕などの親日の経歴を合理化し、今日の若者たちには監獄としてしか映らない、警察が定木でスカートの丈を計ったりした維新時代を褒め称える理由は何か? だれが見ても無理の極みなのだが、実はニューライト風の歴史歪曲には極めて徹底的な論理が貫かれている。

従来の韓国史の教科書にしても、国家と資本主義本位で書かれていることは同じだ。資本主義国家としての大韓民国の「建国と成功」は、従来の教科書でも歴史叙述全体の当たり前の帰結だった。それなら、どうしてニューライトたちが教学社の教科書を出すなど、歴史教育の国家主義的・資本主義的な偏向をさらに深めようとするのか? 答えはとても簡単だ。ニューライトたちとしては、従来の教科書である程度反映せざるを得なかった韓国人の反帝国主義的・反抗的な集団心性は最大の障害物だった。日帝などの外勢の侵略に対する被害意識がまだ強い韓国人にとっては、後にアメリカの大統領になるプリンストン大学の総長ウィルソンなどアメリカの有力者たちに諂いながら自分の進路を模索する渡米時代の李承晩、満洲軍時代の朴正煕よりは、李承晩が軽蔑した張仁煥や安重根が遥かに偉大だ。彼らは「殺人者」というより、長期投獄や死刑を覚悟して決行された彼らの行為は窮極的には殺身成仁に当たるからだ。同様に、李承晩よりは4・19の時、銃弾に倒れる危険を冒してまで李承晩独裁の悪夢を終わらせようという一念で、自分だけでなく皆の幸せのために街頭に飛び出した学生たちの方が遥かに尊敬されるのだ。愛他的な精神がこもった集団行動のほかに外勢への屈従と独裁で血塗られた歴史を正す方法はないということを、多くの韓国人は経験的にあまりにもよく知っているからだ。

クエーカー教徒 咸錫憲は民族主義者というより、むしろ世界主義者だったが、韓国の知識人としては極めて珍しくベトナム派兵に反対し弟子たちの兵役拒否を支持していた。彼は果してニューライトたちに評価されることがあるだろうか。とんでもない!

このような韓国人の集団意識を「矯正」しようとすることがニューライト歴史運動の骨組みだ。彼らは「民族主義との闘い」という美名の下で民族主義のみならず、個々人の対他的で反抗的ないかなる連帯意識も否定し、原子化された個人たちの体制順応と出世のための奮闘を新しい大韓民国の理想とみなす。反帝民族闘争のみならず階級闘争や女性解放闘争、反戦闘争も同様に無用の長物と捉える。クエーカー教徒 咸錫憲(1901~1989)は民族主義者というより、むしろ世界主義者だったが、韓国の知識人としては極めて珍しくベトナム派兵に反対し弟子たちの兵役拒否を支持していた。彼は果してニューライトたちに評価されることがあるだろうか。とんでもない!彼は日帝であれ大韓民国であれ不当な国家権力に常に対立し続けていたが、ニューライトの理想は国家と資本の枠内で「合理的な」出世と蓄財を夢見る資本家型の人間だからなのだ。このような人間たちには「民族」のみならず家庭以外のあらゆる集団ないし他者たちは単なる利用対象にすぎない。ただし、自分の富を守り彼の成功を保障してくれる国家には彼らは徹底的に従順なのだ。維新時代の全体主義国家であってもかまわない。この国家の頂点に博仁がいてもボケた「博士」がいてもかまわない。外勢であれ何であれ労働者を搾取する「自由」を奪うかもしれない共産主義者を抑えてくれさえすればすべて良しなのだ!

このような「歴史」の隠れ蓑をかぶった新自由主義的洗脳は、果して韓国人たちに受け入れられるだろうか。私はそうはならないと考える。李承晩と朴正煕の立てた体制は、多くの韓国人たちに「成功」どころか最早単純な生存さえも保障できず、隠れ蓑は益々その限界を露呈する。その体制が危機に陥ればニューライトの「史学」も一緒に沈没することだろう。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/605356.html 韓国語原文入力:2013/10/01 22:07
訳I.G(3974字)

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