本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 国民的タブー、国民的聖域

登録:2013-09-29 16:06 修正:2013-09-29 17:47
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私たちはたいてい北朝鮮を非難する時、「あそこでは金日成家や最高指導者を批判することができないでしょう」というのは必ずといってもいいほど挙げられる意見です。そうです。下からの自発的な「民族英雄」としての金日成に対する尊敬心はあるとしても、大体は金日成とその家柄は上から作られた「人民」集団の「大同団結」の社会文化的なコード、社会を統制可能な「単位」として作り上げた、あらゆるタブーに取り囲まれた聖域になったのです。様々な内外の矛盾に満ちた朝鮮のパルチザンであり中国共産党員、ソ連の赤軍大尉などとしての金日成は消え失せ、一分のすきもなく、一切の矛盾も見せない「民族英雄」のみが残ってしまいました。前者の金日成、すなわち実質的な歴史行為者としての金日成に対する愛着が遥かに強い私としては、このような「公式な英雄化」の過程は悲劇そのものですが、「人民」集団創出の論理上、避けられなかったようです。

 ところが、北朝鮮の「人民」集団に劣らず、南韓の「国民」集団の創出もあらゆる聖域化作業やタブーなどに裏付けられてきました。ただし、その聖域化の具体的な過程は北朝鮮とかなり異なっているのみで、聖域化そのものは北朝鮮並みか北朝鮮以上です。しかし、やや陳腐な(建国創業主の類の人物とその子孫の神聖化)北朝鮮における聖域化の過程と私たちの聖域化の過程とはあまりにも異なった姿に見受けられるため、私たちは自分たちの「偶像崇拜」の水準がどの程度なのか、客観的に点検することができないだけなのです。また、このような点は、メディアや教科書などが徹底的に統制され、大多数の北朝鮮の人々にとって金日成家の崇拜が当たり前のように、私たちにも自分たちの「小さな金日成たち」の崇拜を極めて当然視しています。ここで簡単に私たちの偶像をいくつかに分けて考えてみたいと思います。

 1、北朝鮮の場合とは異なり、南韓の初代大統領は極度の対外依存性、無能、腐敗を特徴としており、経済開発にも、民族主義者としての自らの「正統」の確立にも、自分と自分の系列による永久支配にも(幸い!)失敗した挙句、追い出されてしまいました。今や彼の熱烈なファンであるユ・ヨンイクさんが国史編纂委員会委員長になったため、おそらく北朝鮮を彷彿とさせる「創業主カルト(崇拜)」作りの試みが予想されますが、それでも李承晩治下が実際どうだったのかを覚えている人もまだ多く、限界があります。そのため、しばらくは金九などといったかつて悲劇的に殺された他の極右派の指導者たちが依然として神聖不可侵の「民族英雄」として残ることでしょう。もちろん、金九とその系列の極右派たちが犯した様々な暗殺行為(金立、玉觀彬などの暗殺)の本質や国民党の藍衣社などの中国ファシストたちとの癒着などといった問題に対する一切の公開討論は相変らず不可能になるでしょう。あまりにも民主的にですね。

 2、韓国の政治指導者たちのもの足りないカリスマを補うかのように、様々な宗教的「英雄」たちの崇拜は各宗教集団ごとに相変らず強く残ることでしょう。「清貧の宗教人」韓景職がベトナムまで駆けつけ「国軍」の侵略従犯行為をどんなに祝福したからと言っても、「我らの時代の高僧大徳」李性徹の普照知訥の頓悟漸修論批判などがいくら無意味な独善と毒舌にすぎなくても、彼らはそれぞれの宗教集団内では相変らず絶対的な権威を持ち続けることでしょう。そのような絶対的な権威への服従は、果たして「偉大なる首領」の崇拜と本質上そんなに違うでしょうか。

 3、「グローバル」新自由主義時代なだけあって、「国際的可視性」が際立つか、そのような可視性を保有しつつも、国際的にべらぼうに金を稼ぐ人々も神聖不可侵の隊列に上り「国民英雄」になります。たとえば、盧武鉉時代に国連事務総長になり一躍「国威発揚」に多大な貢献をした維新時代の外交官僚出身の潘基文さんを見てみましょう。アメリカのイラク侵略に対し、一切の批判を手放し、逆に立証もできなかった「天安艦撃沈」に対して徹底的に南韓外務省の立場に肩入れした彼は、今や6万5千人の国連の労組との交渉を拒否し(http://www.labourstartcampaigns.net/show_campaign.cgi? c=1958)、国連にまで行って蔚山や影島のような労働弾圧をほしいままにしています。それを韓国のメディアはまともに取り上げると思いますか。聞くまでもありません。われ等が「国民英雄」は無謬なのです!あるいは、一時期日本の広告代理会社 電通の提案でIBスポーツがそのマネジメントを引き受けたキム・ヨナ(http://www.pressian.com/article/article.asp? article_num=30130326153643)は、自身の金儲けとともに、韓国と日本などの広告代理業社、そしてフィギュア生中継放送の広告主、すなわち国際資本の金儲けも同時に保障しているという点に対し、果して国内のメディアは騒ぎ立てたりしますか。フィギュアはいまや「国民の誇り」であるだけに神聖視され、資本の「計画商品」の性格を持つフィギュアスターたちは「国民の身体」になってしまいました。「国家」「国民」、そして資本が重なり合うこのような現象は、私たちに極めて自然であるだけに、公開的な批判をほぼ許しません。

 私たちに発言の自由が部分的に与えられている理由の一つは、韓国のようにメディア資本が国家と歩調をあわせながら徹底的に管理されている社会において、いかなる体制批判的な発言も結局は荒野の叫びに終わってしまうからです。すなわち、体制にとってはそのような批判はあまり危なくないために容認しているわけです。しかし、叫ぶことは何も変えることができなくても、「私」自身がこの全体主義の砂漠で中で狂ったりしないためにも叫び続けた方がマシだと思います。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/61960 韓国語原文入力:2013/09/25 00:27
訳I.G(2535字)

関連記事