本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 誰が真の暴力者か?

登録:2013-07-28 12:56 修正:2013-07-28 13:05
「希望のバス」を罵る人々へ
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 今は忘却されてしまいましたが、約110~120年前は日本や開化期の朝鮮で最も有名な西欧の哲学者は「適者生存」の論理で有名な(あるいは「悪名高き」と言わなければならないか?)ハーバート・スペンサーでした。ダーウインの「自然淘汰」の論理を人類社会にも適用し、「自然に淘汰される貧民たちを国家は絶対に救済してはならない」という特有の親資本的な苛酷さも見られたものの、産業革命初期の自由主義者らしく、彼はいつかは「産業社会の発展」が遥かに非軍事化された、より非暴力的な社会の形成につながると考えていました。彼が思い描いた「社会進化」は結局社会の漸次的な非暴力化でした。「適者生存」を露骨に掲げることは、第二次世界大戦以後はあまり人気がなくなったものの、かなり多くの穏健なリベラルたちは今もスペンサーの仮説どおり、「産業社会の文明化」は結局は漸次的な非暴力化を意味すると信じているようです。まあ、ハーバード大のスティーブン・ピンカー(Steven Arthur Pinker)という人が『我々の天性のより良い天使たち―なぜ暴力は減少するのか(The Better Angels of our Nature: Why Violence has declined)』という厚い本を出し、そこで「暴力減少の趨勢」を統計的に裏付けようとしました。そうですね。ボストンのような高級住宅街から離れなければ、おそらく暴力がこの世に最早ほとんどないという感想を自然に持つことができるかもしれません。私も一度行ってみましたが、本当に暮らしやすい所でした。

 ピンカーの論理の問題は、彼が「暴力」をあまりにも狭く、すなわち「殺人」のみに限定したことのようです。後期資本主義社会は、殺人をしないわけではもちろんありません。します。ただし、主に世界体制の周辺部の資源地帯に行ってします。たとえば、米軍と一緒に韓国軍もノルウェー軍も、一時はフィンランド軍までも加勢し、あらゆる「文明国の軍隊」(?)が「原住民の討伐」(?)に精を出しているアフガニスタンでですね。討伐してみたところで、結局は「原住民の狂信徒」たちにより今や事実上の敗北を喫した形になったようですが、とにかくその過程で原住民たちをとても緊要に利用してきました。新種の無人爆撃機を試してみるための、一種の人体実験の材料としてです。しかし、これは資源地帯の話であり、製造業の国家である私たちとはかけ離れているでしょう。ピンカーの主張とは異なり、まったく減らない私たちの間の主な暴力の形態は、資本の横暴、最近の流行語でいえば「甲の横暴」です。たとえば、派遣会社を通して非正規労働者たちを1年契約でやたらに雇っておきながら、彼らを正社員たちと同じラインで働かせ、正社員たちと同一労働をしたり、むしろよりきつい仕事をする彼らが(実は不十分極まりない)「非正規職保護法」に基づいて正社員への転換を要求すれば、彼らをただちに契約解除してしまうこと。職場以外にいかなる福祉も実際は存在しない社会で、失業手当を最長10ヶ月間もらった後は、ただ飢え死にする可能性だってある社会で、そのようなことをしでかすことが暴力ではないですって? 何よりも基礎的な正義をすべて踏みにじる強者による不当待遇そのものが、基本的にはまさに広義の「暴力」に含まれないのでしょうか。このような立場から眺めれば、ピンカーの主張とは正反対に、私たちの社会は非暴力化するどころか、むしろ新自由主義的な悪質行為が累積して、一層暴力的になっています。そして、その暴力化の過程の中心には、まさに「非正規労働の問題」があるのです。

 「暴力」が成り立つためには、必ず誰かが角材を持ってほかの誰かに向けて突進しなければならないのでしょうか。非正規労働でなくとも、毎週60~70時間も働き、何年か経てば重い病気を患い、労働者は現代車などの財閥企業を富ませる過程で自分たちの身体に対するひどい身体的な暴力を加えるのです。そして、そこから派生する自分や周りの人々に対するあらゆる付随的な暴力を考えてみましょう。財閥の利潤の極大化のために捧げられるほどに、本人にとって無意味になる人生の哀しさを忘れるために飲むお酒が私たちの体に加える暴力、酔ったせいで周りの人々、特に家族に与えるかもしれない暴力、世界最長労働時間のせいで子供たちに遂に与えられなかった愛情不足から派生する子供たちの間の学校暴力……。正社員たちも暴力で作られ暴力で維持され暴力で食べていくこの社会の暴力性に全身を露出させられていますが、あまりにも不当にいつでも食物さえ無条件に奪われかねない、どんなにきつい仕事をしても、「仲間」扱いすらしてもらえない非正規労働者たちが体験する暴力の強度はどれほどでしょうか。

現代自動車警備職員が20日夜、蔚山(ウルサン)北区(プック)の現代自動車工場鉄柵前で先端をとがらせた角材、竹などを持ち、希望のバス参加者を阻み立っている。 蔚山/キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr

 今は保守メディアが数日前の蔚山・現代車工場に行った希望のバスを「暴力」と罵り始め、国家もそれに便乗して希望のバスの組織者たちを告訴し拘束捜査するなどと脅しています。当初から正社員として雇わなければならない人々を、賃金搾取などの目的で非正規職として雇い、その血の汗を絞り取った資本の本来的な暴力性は初めから関心外で、正社員転換に関する最高裁の判決さえも無視した現代車資本のあらゆる不法行為も「暴力」の定義には入っていないようです。使用者側が雇った用役らが投げた石や噴射した消火器などにより頭が割れ顔が破れ、血を流した希望のバスの参加者たちの直接の「暴力経験」もすべて無視されています。まあ、頭が割れ顔が破れ血を流した多くの被害者たちは、自分の名前を名乗り救急車に乗ることを極度に避けるほど、国家と(特に蔚山に居住する場合は)現代車資本の仕返しを心配していました。「乙」は殴られても「甲」の仕返しが怖くて殴られたとも言えないのが我々の現実なのです。非暴力化する産業社会? ピンカーが韓国で不正規労働者の暮らしをほんの数ヶ月でも経験していたら、彼は本を正反対に書いたのではないでしょうか。

 国家と資本の暴力が隠蔽され論外に扱われ、旗竿を持って使用者側が雇った用役たちと対峙した何人かの希望のバスの参加者たちの行動のみが「暴力」と規定される状況そのものが、最早暴力性の極致ではないでしょうか。正社員にならなければならない人々を不法的に非正規職として10数年間雇い、その組合活動を不法的に弾圧し続け、正社員に切り替えよという最高裁の判決さえも無視する資本の下で絶望したあげく、結局は旗竿を持たざるをえなかった「乙」の足掻きを問題視する前に、今まで「甲」が何をどのようにしてきたのかを明らかにしなければならないのではないでしょうか。そして、果して旗竿を持って抵抗した何名かが工場に進入しようとした試みなどは希望のバスのすべてでしょうか。ありもしない「暴飲の宴」(世界日報)などと小説を書いている保守メディアたちはほとんど無視しましたが、参加者たちの中には日本の非正規職組合の活動家たちもいました。彼らの経済的事情では非常に負担となる航空運賃を支払い、このように惜しみなく、韓国で弾圧を受けている仲間たちのために連帯しに来たのでした。大阪から。東京から。地方から。私たちがこれまで観念的にのみ考えてきた「東アジアの民衆連帯」とはまさにこのようなことではないでしょうか? そしてこのような韓国人「乙」と日本人「乙」の自発的な下からの連帯は、広島の原爆投下を「神の懲罰」(中央日報)と言う妄言を躊躇わない韓国の保守メディアの行動と比較されませんか? 一体誰が真の暴力者でしょうか。

 もし労働者たちを悪質に絞り取り、数千億の累積配当金を10数年間騙し取ってきた事業主や、学生や職員たちを、いつ事故で死ぬかもしれない「海兵隊キャンプ」に無理やり送り込み、人間兵器化させようとする教育官僚、職場の管理者たちが暴力者ではなく、絶望的に抵抗する労働者たちの方が「暴力者」なら、この社会は「乙」としてはまったく生存不可能な社会になることでしょう。これは果して私たちが本当に望むことでしょうか。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/60626 韓国語原文入力:2013/07/24 12:47
訳I.G(3405字)