先月蔚山(ウルサン)で起きた希望のバス参加者と現代自動車会社側が雇用した外注ガードマン間の衝突が最近広く知れわたった。 最高裁による非正規職の正規職化判決を無視して、衝突過程でデモ参加者100人余りを負傷させた会社側には無限の寛容(?)を見せる国家は、反対にデモ参加者とデモ計画者に対しては4人を拘束することにし約50人余りに対する調査を行うという。 国家も会社の露骨な不法より労働者の‘暴力的’足掻きに対してはるかに敏感に(?) 反応するかと思えば、保守メディアはデモ参加者に対する言論裁判を進めている。 "竹棒を持ったデモ屋" はそれでも慎ましい側に属する表現で、大慨は参加者が夜通し酒を飲み、ひたすら物理的攻撃をするために蔚山を訪ねてきた暴徒程度に描写している。 多くの報道は希望のバスが蔚山へ向かった理由、すなわち現代自動車の不法派遣行為などに対してほとんど言及することもない。 そうしてこそ "明確な目的もなく、誤った特定理念のためなのか無茶苦茶な暴力を振り回し続ける暴徒" のイメージを作る上でやりやすいようだ。
支配者の暴力が隠蔽される中で、抵抗を試みた下位者の一部の暴力行為だけを均衡感覚なしで浮き彫りにすれば、それは抵抗それ自体を無条件に‘暴力’に追い立てる極右政権の典型的なプロパガンダ手法だ。 例えば私たちの常識では、ファシスト ドイツこそが暴力そのものの化身だが、ファシストのプロパガンダは驚くべきことに、ファシスト自身が‘ユダヤ人ボルシェビキの暴力’の犠牲者(!)として叙述されたりした。 実はファシストのプロパガンダ手法は、今日の朝中東と変わりなかった。 反対者が何らかの理由で犯したある局地的事件を、無限大に針小棒大して‘アカの暴力性’だけに注意を集中させる手法だった。 最も有名な事例は1919年4月30日ミュンヘンで起きた‘人質’10人銃殺事件に関し社会的に記憶させる方式だった。
穏健共産主義者たちがアナーキストなどと共に作ったバイエルン ソビエト共和国の赤い軍隊が自発的に即席裁判を行い銃殺した10人の反対側捕虜は、実は‘人質’とは言えなかった。 二人は共和国を鎮圧しようとした官軍捕虜であり、残りは後にファシスト政党に発展することになった極右民族主義的トゥーレ協会の主要会員らだった。 トゥーレ協会の会員と前会員らがすでに革命指導者に対するテロを犯したことがあり、今後官軍と内通して赤い軍隊に不意に攻撃を加えるだろうと革命家たちが十分憂慮するに足る状況だった。 官軍による労働者虐殺の便りに興奮した赤い軍隊が、いくら判断力を失った状態で犯した事件だとしても、正式裁判なき銃殺それ自体は当然に良いことではなかった。 ところが、革命家側の‘赤色テロ’規模が10人の反対者だとすれば、官軍とミュンヘン内の反革命勢力は果たしてどれほど多くの殺生をしたのだろうか? 官の公式統計だけ見ても、ソビエト共和国が鎮圧された1919年5月1日からの8日間にミュンヘンで官軍の手により577人が死んだが、そのうち‘身分不明’で処理された42人は恐らく革命とまるで関係がない人々であっただろう。 軍事裁判が銃殺刑を下した186人の内の多数はいかなる暴力行為とも関係なかった左派的労働者たちだった。 ところで、果たしてこの白色テロの狂乱は後にファシストらがバイエルン ソビエト共和国を記憶させる方式で若干でも可視的に残っていただろうか?
もちろん全くそうはならなかった。 白色テロは「ユダヤ人ボルシェビキに対する鎮圧と秩序回復」の名で簡単に正当化されたり、完全に忘却の領域として消えたりした。 その代わり「10人の犠牲者を虐殺したユダヤ人ボルシェビキの残酷性」(もちろん実際に銃殺された人々の中にユダヤ人は1人もいなかった)だけが強調されて、‘10人の人質’は崇拝対象にまでなった。 ‘10人の人質虐殺’に関する本などが出版され続け、彼らを記念する大衆決起大会は1930年代末まで定期的に招集された。 本・定期刊行物・大会演説はトーンを高めて 「ユダヤ人ボルシェビキの比類なき暴力性」を叱責した。 すでに死の収容所を運営していたドイツでの話だ。
南韓の公式談論では北韓はいつも‘挑発者’、すなわち暴力行為者として現れて、南韓の役割は暗黙的に‘防御’と規定される。 しかし実際に南韓は果たして‘犠牲者’であり続けたか? この頃、NLLに関して論議が多いが、実は1953年当時に米軍がその線を引いた時、主な目的は南韓海軍の対北挑発の防止であった。
程度の差はあるが、‘我が’国家の暴力を隠したり正当化して、内・外部他者の‘暴力性’だけを全く均衡を取ることなく無条件に強調するのは、韓国の公式談論でもそのままに現れる。 労働者やデモ参加者など‘内部の敵’に対してもそうだが、特に主要な‘外部の敵’である北韓に対して極端にそうだ。 南韓の公式談論では北韓は常に‘挑発者’、すなわち暴力行為者として現れて、南韓の役割は暗黙的に‘防御’として規定される。 しかし実際に韓国は果たして‘犠牲者’であり続けたか? この頃、北方境界線(NLL)に関して論議が多いが、実は1953年当時米軍がその線を引いた時、主な目的は南韓海軍の対北挑発の防止であった。 その時でも‘北進統一’は李承晩の公式理念だったので、南侵より北侵の方がより大きな心配だった。
とても幸いなことに大規模北侵はなかったが、北韓に対する小規模挑発、すなわち工作員派遣は続いた。 大幅に縮小されたと見られる公式統計を見ても、1953~1972年に韓国が養成して北に派遣した北派要員は約1万3000人であったし、その内の7519人が任務遂行中に戦死した。 反対に、知られている北韓による南派工作員数は1953~1999年の間に6446人で、その内1644人が射殺された。 したがって情報収集から破壊・殺人まで多様な任務を帯びた武装工作員たちを、1972年以後の工作員北派を認めない制限された統計だけ見ても、南韓が北韓より2倍程度多く送った。 私たちは本当に‘防御者’であり続けたのだろうか? そして7519人の北派工作員が戦死したとすれば、彼らが遂行した工作などで犠牲となった北韓人は果たして何千人であろうか? ‘北韓挑発’に悲憤慷慨する私たちは、果たして私たちの暴力により犠牲となった‘そちら側’の人々の遺族に謝罪・補償でもするべきではないだろうか? ところが残念なことに、私たちは‘外部の敵’による暴力は記憶しても、大韓民国が行った暴力に対する記憶はいつも消そうとする。
‘内部の敵’に対する態度もその本質上同じだ。 もちろん光州(クァンジュ)民主抗争や1987年6月デモの‘暴力性’は穏健保守メディアもむやみにはかざせない。 抵抗の方法がどうであれ、抑圧者らの暴力性はそれとは比較にならないほどに圧倒的であったということを皆が記憶しているためだ。 しかし形式的な民主化が成り立った後のデモに対しては、保守メディアが普通その原因や要求事項を尋ねることもせずにひたすら "暴力デモ" と罵倒する。 例えば1996年の延世(ヨンセ)大事態の時、義務警察官1人が投石に当って亡くなり、数十人が骨折や脳震盪など重傷を負ったことは残念で嘆かわしいことだが、 "戦場をほうふつとさせる程の暴力デモ現場" を刺激的に描写し "親北団体 韓総連の暴力性" だけを叱責した保守メディアは一つの簡単な質問だけは決して投じなかった。 韓総連が延世大で開いた統一大祝典をなぜ不許可・封鎖して、きちんとした訓練も受けていない義務警察官をむやみに集めて無条件超強硬鎮圧一辺倒で対処しなければならなかったのかという質問だ。 当時、危機に陥っていた金泳三政権は "親北暴力デモ参加者" らに負傷を負わされた義務警察官の姿を全国に誇示することによって、学生運動圏を破壊することで保守層から‘点数’を稼ごうとしたのではないだろうか? 数十人のデモ参加者たちも眼球破裂や骨折ないしそれ以上の重傷を負ったが、その部分はもちろんメディアに大きく露出することはなかった。 ‘彼ら’は‘暴徒’であり‘我ら’はひたすら‘秩序’を守っているだけだからだ。
ヒットラー時代であれ今日であれ、‘我が’国家の暴力性を徹底的に隠しておき、内・外部の‘敵’だけを‘暴力行為者’として描写し、支配・抑圧の日常を‘暴力行為者’らが悪意的に破壊しようとしている、当然に皆にとって良い‘秩序’として宣伝するのは‘甲’のお決まりの談論戦略だ。
ところで最高裁がいくら‘不法派遣’と判決しても、その判決を国内最大の自動車メーカーが履行する意志すら見せない社会の‘秩序’とは、本当に'乙’たちにとって良いものだろうか?
パク・ノジャ ノルウェーオスロ大教授・韓国学