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[朴露子ハンギョレブログより]「負け戦」の美学?

登録:2013-05-12 17:34 修正:2013-05-12 21:02
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 最近色んなことで疲れた状態の中で、私はしばらくロシア語で出版されたトロツキーの評伝(http://www.ozon.ru/context/detail/id/5387559/)を読み続けていました。極めて緻密な個人史の研究に基づいた、優れて専門的な著書ですが、反共主義的な観点があまりにも露骨なので激しい反感を抱くほどでした。この本を読みながら、トロツキーの思想から人格までを再び振り返るようになりましたが、彼の思想―たとえば革命的な国際主義の原則への執着や前衛党の民主性に対する配慮など―の多くの部分に共感はしていても、彼の人格についてはかなり疑ったりしました。 外国語どころかロシア語もまともに駆使できないスターリンとその追従者(オルジョニキーゼ、クイビシェフ、ミコヤン等々)とは対照的に、西欧の主要言語などをすべて駆使でき、イプセンの小説から道徳哲学の理論まで、ほぼ「すべて」に対して博学多識ぶりを発揮できた天才型革命家のトロツキーには、その反対者たちは「無知な無色の官僚」、正当に無視・蔑視されなければならない存在だったのです。もちろん、トロツキーがスターリンに対して感じたことはそれだけでもなかったし、主に党の官僚化と「一国社会主義」のようなナンセンスに対する憤りだったと思われますが、とにかくトロツキーほどの知的傲慢さはまだ「謙譲の徳」を敬う、ほぼ伝統社会に近い当時のソ連社会では受け入れられがたいものだったに違いありません。

  ところが、これらのこととは別に、私にはトロツキーにとても強くひかれるポイントが一つあります。それがまさに「負け戦」の問題です。1929年、トロツキーがソ連から追放されてからは実は「ゲーム」は終わっていました。にも関わらず、なお革命的な情熱を抱き「新しい社会」の建設に沒頭する限り、彼の政敵たちに巨大な「国」のあらゆる資源がすべて掌握されていただけに、トロツキーには勝ち目はありませんでした。資源と官僚組職に対するコントロールだけの問題でしょうか。もちろん「一国社会主義」は厳密なマルクス主義の理論からは理屈に合うものではないにもかかわらず、ソ連の国内のみならず海外においてもこの「簡単で現実性のある話」は幾多の保守的な労組官僚、党官僚、甚だしくは保守的な安定を求めるあらゆる左派的労働者たちにも訴える力が大きかったのです。「世界革命」のようなユートピアを目指して尽力するのではなく、ただ「今ここで」権力を掌握し大規模な工業を国有化させ、革命功労者たちに悪くない職を序列に従って与え、あらゆる労働者たちに終身雇用を保障し、その後は計画通り次第に生活水準を高めてゆき……。これは「本当」の社会主義なのか否かに関係なく、多数には魅力的に聞こえる話でした。その正体不明な「党内民主主義」や、蜃気樓のような「永続的世界革命」とは違います。そのため、トロツキー生前のドイツ(1933年以前)、フランス、アメリカ、カナダなどのトロツキー主義的組職は約300~400人以下にすぎなかったし、労働者たちもほとんどいない、インテリたちの集まりでした。まあ、中国やベトナム、スリランカの事情も同じでした。スターリンは残酷な暴君であり、トロツキーは理想主義的革命の侠客でしたが、結局「多数」は後者より前者を選択しました。我々の時代の性格に関する多少悲しい診断ではないでしょうか。

 彼が必敗の、勝ち目のない闘いをしていることは、トロツキーも知っていたようです。表現を慎んでいたものの、知ってはいたのです。その闘いの結果、ソ連に残った彼のすべての家族と転向しなかったすべての追従者たちは極めて残酷な殺され方をすることも知っていたのでしょう。ソ連国内のみならず、内戦中のスペインでもスターリンの保安機関などがトロツキー主義者たちを無惨に狙い撃ちし、結局その最終幕はすなわちトロツキー本人に対する暗殺作戦でした。ギリシャの悲劇のように、あの世を見つめ続けていた主人公たちが皆その道へと旅発ったわけです。ところが、彼が最も愛した人々までもすべて犠牲にさせるあの「負け戦」を、彼は果して何故敢行したのでしょうか。いかなる力で?老いたユダヤ人の単なる宗教的な片意地だったのでしょうか。

 トロツキーから学ばなければならない部分は、つまりこのことのようです。すべての人々は結局死にます。また早目に革命戦線で戦死した方が幸せなのか、それとも惨めに生き永らえながら数え切れないほどの侵略、掠奪、搾取の現場を見守った方が幸せなのか、客観的に判断することはできません。それは人々がそれぞれ主体的に判断する問題です。ところが、トロツキーのように、「負け戦」と避けられない非業の死を選ぶ人々が幸せな理由は、彼らは現在ではなく未来のために生きていたからです。世界的なレベルで新しい社会建設の様々な前提條件がまだ成熟していない今現在は、スターリン式の「国家主導の、やや非民主的で、相対的に自給自足型の非市場的な社会」が多数には「代案」として受け入れられたとしても、もしかしたら未来は遥かに到逹しにくいトロツキーの代案の方が脚光を浴びるかもしれないということです。結局、トロツキーは「負け戦」と痛苦、そして殺されることを選択することによって現在ではなく未来を選びました。未来を選ぶためには人間には信仰が必要ですが、トロツキーにはそのような信仰がありました。数百年の時間が経っても、結局は「この道」を通って人類は幸福の時代に到逹するという信仰でした。それ以上の幸せは果して存在するでしょうか。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/59542 韓国語原文入力:2013/05/08 19:20
訳J.S(2377字)

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