政府は信頼プロセスを語る。 しかし南北関係で繰り広げられているのは不信プロセスだ。 信頼の言葉と不信の現実、この衝突をどのように解釈すべきか? パク・クネ政府がスタートしてまもなく100日になる。 イ・ミョンバク政府と異なるという若干の期待感は根拠がないということがあらわれた。
何が問題か? どうも政府は信頼という概念を誤解している。
信頼に無条件という言葉はふさわしくない。 それも敵対と対立の関係において。 もしそのように考えるならば、それは宗教であって国際政治を眺める現実認識ではない。 背信の危険がないならば信頼の問題は存在しない。 国際関係で無条件に信じることのできる関係というものはない。 重要なのはある程度の信頼だ。
信頼は平和を作り協力を拡大するのに必要だ。 ある程度の信頼なくしては、協力の過程を持続し難い。 しかし忘れてはならない。 協力の過程なしに信頼が作られようか? 特に協力水準が低ければ信頼はこわれやすい。 不信が介入するためだ。 それで信頼形成には相当な時間が必要だ。
パク・クネ政府は信頼を対話の結果でなく対話の条件と考える。 政府関係者たちは北との対話を始めもしないうちから、信じることができないと言う。 信じなければ対話はできないのか? そのような考え方は現実的でなく、同時に歴史的根拠もない。 例えばパク・チョンヒ政府が7・4共同声明を採択する時、果たして北を信頼しただろうか? そうではない。 冷戦時代、米-ソ関係や紛争解決のための多様な対話と交渉において、信頼を前提条件に掲げたことがあるか?
敵対的な関係で相手の善意を期待するのは単なるうぶだ。 取り引きや交渉は相手の善意に頼ってするものではない。 危機管理をしながら共通の利益を拡大していくことだ。 米国のレーガン大統領は言った。「信じろ。 そして検証せよ。」北の6者会談参加言及や、あるいは開城(ケソン)工業団地に対する立場は、いつでも接触の過程で真正性を確認することができる。 約束の履行過程でも十分に検証できる。
不信の根拠に今までの北のやり方を取り上げる人が少なくない。 しかし合意の破棄や関係の悪化を果たして一方の責任と見ることができようか? 責任の比重は違うかもしれない。 しかし相互関係の中で問題の原因を探す努力が必要だ。
そして不信を根拠として対話に出ないならば、葛藤解決の過程はどのように始まるのだろうか? 訊ねたい。 東西ドイツ関係、東西のデタント、南アフリカ共和国の民主化、私たちがよく言うところの長いこと解決困難だった諸紛争は、どのように解決されたのだろうか? 重要なのは問題を解決する能力だ。 保守政府であれ進歩政府であれ、懸案を解決する能力を見せなければならない。 誤った理念と根拠もない虚像に捕われるならば、結局残るものは無能だけだ。 無能が痛いのは機会喪失のためだ。 “失われた機会”が増えていくばかりの現実が残念でならない。
信頼は対話の結果であって対話の条件ではない。 だからこそ信頼形成が重要だ。 信頼はどのようにして作られるのか? 政策の予測可能性が最も重要だ。 現政権の政策決定が公的過程を通してでなく、大統領の私的介入により成り立っているという点が問題だ。 該当部署の実務的意見が重視されず、部署間の協議と調整がなされない。 そうしていきなり大統領が介入して決定を下す。 混線は避けられず、該当部署は大統領の考えが何なのか分からない。 政府内の官僚たちも予測しにくい政策を、信頼のない相手が信じることができようか? 北を信じられないと言う時、自らの信頼についても考えてみることを願うばかりだ。
キム・ヨンチョル仁済(インジェ)大統一学部教授