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[朴露子ハンギョレブログより] インターネットの限界

登録:2012-12-31 14:51 修正:2012-12-31 19:25
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 文明の利器はすべて両義的です。人類の生産力発展の結果物として人間を利することもあれば、また資本主義的なシステムの中で人間を害し続ける役割をも同時に果たします。階級社会が続く限り、それは変わりません。たとえば、基本的に同じ飛行機がリビアの市民たちを爆弾で殺す爆撃機にもなれば、同じリビアの病気の子供たちを治療可能な場所に運ぶ旅客機にもなるということです。人口が分散している農村地域では、小型トラックなどは農家には欠かせない必需品かもしれませんが、大衆交通が発達した大都会ではマイカーは確実に社会悪、環境破壊の主犯の一つにすぎません。基本的に同じ技術は時には完全に逆の役割を果たすということです。

 インターネットもそうなのです。その暗い影は決して無視できません。ゲーム中毒にしてからがそうですが、たとえば超大手ネット書店たちが町内の本屋をつぶすために何をやっているか考えてみましょう。ある人は選択できる本の種類が豊富で注文しやすいアラジンやアマゾンが果たしている順機能もあるではないかというかもしれませんが、その物流センターで働く非正規労働者たちの労働の強度や条件などを一度ご覧になればおそらくそこに本を注文する気は自然に消えるでしょう。結局ネットが後期資本主義における生産の寡独占化を後押ししているわけですが、その過程は消費者たちの立場では多少の利便はあっても、零細商人たちやその労働条件が悪化の一途を辿っている労働者たちにもまさに殺人的なのです。まあ、敢えてインターネットがなくとも、マルクスが予見したとおり、独寡占の過程と労働者たちの絶対的・相対的な貧困化の過程、小ブルジョア層の崩壊の過程はどうせそのまま進行したはずです。ただし、インターネットによりある部門でその過程が多少促進されました。

 インターネットの「進歩的」な擁護者たちは何より二つの利点を強調しています。第一はSNSの持つ双方向性や平等性などであり、第二は急進的な各種の少数者たちはネットを活用しなければ声を上げる方途を見つけられないという点です。この二つの論拠はある程度有効です。もちろん、実質を質せばSNSの平等性などはかなり見せかけにすぎません。フォロワー数の最も多いツイッター論客たちを見れば、大概ある程度の社会・文化資本(留学経歴、作家としての名声、教授職など)を既に獲得し、社会的な発言権を確保した人々がほとんどです。つまり、ツイッターができたからといって、社会の従来の秩序がどこかに消えるわけでは絶対にありません。しかし、とはいえフェイスブックやツイッターはマイノリティーの意見が爆発的に拡散する可能性を提供してはくれます。問題はそれです。フェイスブックの「友達」同士は検挙や罰金の恐れのある集会に一緒に出かけるほどに相互間の連帯力は果して強いでしょうか?またそのような集会を定期的かつ持続的に続けるほどに力強い持続性があるでしょうか?フェイスブックは確かに「言葉」の拡散の経路ではあるものの、実質的な闘争が要求する強い連帯力を養える道具では決してありません。連帯力を養おうとすれば、それでも互いに普段から顔見知りにならなければなりません。実際の討論も一緒にやってみなければならないし、集会で歌でも一度一緒に歌ってみなければなりません。これらをすべてフェイスブックに代替させることはできません。ところで、今のような労働者たちの自殺の連鎖を、本当の強力な連帯運動以外に何かで止める方法があるでしょうか。国家と韓進、現代資本たちに損賠訴訟と仮差し押さえを撤回させ、労働者と交わした従来の協約をまじめに守り通すよう仕向け、まじめに交渉の場に出させるためには、私たちに持続的で大々的な集団行動は必要になるでしょう。フェイスブックなどはそのような行動を組織するのには役立つかもしれませんが、行動そのものを代替することは絶対にできません。

 マイノリティーたちがインターネットから得た恩恵は計り知れません。これは間違いありません。まあ、このブログもそうですが、全国紙、すなわち広告主と資本が支配するメディアの世界に近付きにくいすべての人々にはインターネットは唯一の「広場」です。また韓国に住んでいれば講演などの方法もあるものの、私のような海外在住者の場合には実際インターネットしかありません。労働者の自殺に関する知らせに接する通路はインターネットが唯一です。問題はそれです。ネット空間は「無数の個体の多様性」を内包してはいるものの、実質的には現実世界の秩序どおり徹底的に秩序化されています。アクセス数の最も多いサイトは(大資本がバックに付いている)主要なポータルや新聞、放送局、そしてインターネット発展初期に運良く「受けて」大衆化できた極少数のインターネット新聞(oh my newsなど)などです。彼らが主流化し広告主などの圧力を受けている以上、最早「急進性」を帯びることはありません。そして急進的なサイトはインターネット上でも見えない孤立状態に置かれています。そこでは当然「これ以上殺さないで!」、「死んでいく労働者たちと連帯しよう!」と叫び続けられていても、それだけでは死に行く人々の列を止めることはできません。その叫びに耳を傾ける人々の数はたかが知れていますから。

 一言で言えば、インターネットは極めて立派な補助手段です。100年前なら、たとえば「イスクラ」(火花)のような ロシア社会民主労働党の機関紙はまさしくこのような補助手段に属していました。今のレディアン(http://www.redian.org)やチャムセサン(http://www.newscham.net)のように、国内外の労働運動に関するニュースを届け、同時多発的なストライキや集会の日時などを知らせ、弾圧や抵抗に関する知らせを共有できるようにし、参加者たちをして時空間の超越を可能にしました。しかし、「イスクラ」がそれなりの役割を果たせた背景には「党」の存在がありました。都市ごとに、大きな工場ごとに、大きな大学ごとに支会を持ち、ある所で弾圧が起きれば多くの所で労働者と学生たちの反対行動をすぐに組織しうる、そんな「党」です。議会闘争もするものの、それより工場や学校などの下からしっかりと基盤を固めるそんな党。とても旧態依然とした話に聞こえるかもしれませんが、いかなるフェイスブックもいかなる進歩的なサイトも、人間と人間を固く結ぶ、それなりの規律性と共に徹底して民主的に意思が決定される「オフラインの政治組職」に代わることは絶対にできません。その組職内では皆がすべてのことに必ずしも同意する必要もありません。ロシア社会民主労働党の中にもボリシェヴィキとメンシェヴィキのような大きな分派の外に両派の間にも幾多の多様な意見グループが共存していました(1920年代後半以降スターリン独裁は様々な反対派を追い出し始めましたが、その過程が極めて流血的だったというほど党内には強力な多様性の伝統があったということです。その伝統は、血を流さずには消すことができなかったのです。しかし、その伝統が消えた途端、党も実際に革命組職としては絶命し独裁の道具と化してしまいました)。重要なのは、皆が共有しうる「最小綱領」でした。結局、今の南韓でも「労働者たちの独自政治勢力化」、「労働階級と零細民たちの階級的利害関係の標榜」を目標にする多くのグループたちは、まず同じ「傘」の下に入り、一緒に極右政権に抗うことは先決の課題になりそうです。

 極右派が選挙で勝ってから1週間が経った現時点で既に4人の労働・統一闘士が自ら命を絶ちました。極右政権の5年間にどれほど多くの犠牲者が出るかを私たちにあらかじめ知らせているわけです。これ以上人々を死なせないようにするためには、犠牲をあらかじめ防ぐためには、「インターネットのやりとり」レベルの「言葉」を超えた組職と行動が必要です。また組職がない以上、行動も4年半前のキャンドル・デモのように単発で終わってしまうため、党の組織の整備と拡散、多くの労働者組職を抱え込む包括的な「労働者たちの左翼政党」の建設が正道のようです。ああ、そうしなければ、私たちに残されるのは、一人また一人が死んだという話を聞く時のその無力な怒りだけになることでしょう。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

http 韓国語原文入力:2012/12/26 23:19
訳J.S(3558字)

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