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[朴露子ハンギョレブログより]注意!「ポップ・サイエンス」

登録:2012-12-10 09:23 修正:2012-12-10 09:36
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私はたまに ―商売柄、接することになる― K-POPについてあれこれ「言及」していますが、実は衆生たちに及ぼす害悪の強度からすれば、いかなるポップよりも「ポップ・サイエンス」、すなわち学問の名を借りてメディアの力に支えられカビのように蔓延る「大衆的な偽学問」こそがおそらく最も危ないものでしょう。「江南スタイル」はどのみち2~3年を経ればほとんど皆の記憶から姿を消してしまうでしょうが、「ポップ・サイエンス」が大衆化させる判断ミスは一つの通念になり、人々の思考能力を深刻に低下させるからです。私たちに身近な事例から話しますと、最も代表的な「ポップ・サイエンス」はおそらく李御寧(イ・オリョン)さんの著名な『土の中に、あの風の中に』(1962年)からでした。実はその時、李御寧が著した「韓国人論」そのものはそれほど新しいものではありませんでした。基本的なモデルはもちろん和辻哲郎の『風土』(1935年)などの「日本人論」であり、「韓国人の性質」に関する具体的な内容は植民地時代の崔南善や金斗憲の「韓国文化論」をほぼそのまま取り入れたものです。動的というよりは静的で消極的な韓国人、伝統に縛られている韓国人、韓国人の及び腰文化、涙の文化、道徳性の内在する韓国美、自然の征服ではなく自然への同化を志向する韓国人等々……、表現は少し異なっていても、これに類似する話は既に植民地時代の「文化民族主義者」たちによって論じ尽くされていたにもかかわらず、ことさら1962年に再び出現したのは新軍事政権が早速取り掛かろうとしていた「祖国近代化プロジェクト」と絶妙に相互作用していました。もちろん李御寧は朴正煕の走狗となるには遥かに知的な文化人でしたが、韓国文化の前近代性を口を極めて強調し、その前近代性を本質化する『土の中に、あの風の中に』のような話は図らずも権威主義的「近代化」の必然性を強力に暗示する側面も持っていました。実はあからさまに権力者たちの行為をほめたたえるよりは、客観性の名を借りたこのような「それとない合理化」は遥かに危ないともいえるでしょう。

 韓国と日本の「韓国/日本人論」という名のやや民族主義的な「ポップ・サイエンス」を本格的に考察するのも面白いと思いますが、時間集約的な作業なので、今度の機会に回し、一旦最も有毒な海外の「ポップ・サイエンス」の事例から明らかにしてみましょう。ソ連と東欧が崩壊した際、「資本化」の走狗たちのバイブルのような書物はすなわちアルビン・トフラーの『第三の波』でした。旧ソ連もそうでしたが、中国でも盲目的な西欧化を志向した80年代後半世代の一部にはほぼ「経典」になった本でした。「ポップ・サイエンス」も決められた有效期間があり、和辻哲郎とともにトフラーも既に多数によって忘れられたものの、覚えている人々も少なくないでしょう。国民国家の時代が去り、均質化した大量生産の時代も去り、産業基盤の経済が知識基盤の経済にとって代わられ、民主主義が直接的な治者・被治者間の疎通中心の参加民主主義に変わり、金銭ではなく知識と創造性の支配する社会が訪れるという彼の話を、おそらく覚えているでしょう。実は私が寝言のようなその話を今でもよく覚えている特別の理由の一つは、1992年にほとんどトフラーの話で塗りつくされていた金泳三(キム・ヨンサム)の選挙用パンフレット(『新韓国』だったでしょうか、今は記憶もおぼろげですが)を露訳したことがあったからです。当時は飢えていましたし、翻訳で受け取った100ドル紙幤一枚でそれでも2~3ヶ月は食べていけたため、簡単に韓国の保守主義者たちに図らずも付逆行為をしてしまったわけです。金泳三氏はトフラーの名前を何度か言及するだけだったものの、主な主張はほとんど同じでした。

 この話のどこが戯言だったのでしょうか。端的にいえば、トフラーに心酔したように見えた金泳三が執権していた時 ―被治者たちとはこれといった直接疎通はないままに― 取った措置とその結果を見ればわかります。脱産業的な経済が益々国際化(日本の「コクサイカ」を韓国化したようなもの)し、もうつまらない製造業よりは最尖端の金融業で儲けるために、特に第二次金融圏に対する規制が撤廃され、一時は安い利子で西側や日本からお金を借り、より高い利子で東南アジア諸国の金融機関に貸す高利貸しが大変流行りました。そうしたら…そうしたら、東南アジアの金融危機がすぐに韓国を襲いIMF時代が到来したわけです。脱産業化と国際化の極めて成功的な事例でしょう。もちろん金泳三の失政は、ソ連を崩壊させた資本化の主役たちの悪事に比べれば、おそらくすずめの涙のようなものでしょう。そこでは「国民国家の相対化」の掛け声のもと、それなりに多数への基本的な福祉の責任を負っていたソ連の崩壊に対する感覚を麻痺させ(「どうせ国家の時代は去ります。昔の国家が消えたからと言って一体それが何だと言うのでしょうか」)、「脱産業化」の掛け声のもと、90年代はそれなりに何かを生産していた企業などに殺人的な課税をする一方で、西側や中国、韓国の消費財を輸入販売する中間業者や金融機関からはろくに税金も徴収しなかったのです。ロシアなどにおける「第三の波」の真の顔は基礎的な産業施設の保存さえも担保できない、最悪の野蛮で掠奪的な資本主義でした。そのような資本主義の到来時期に「第三の波」のような「ポップ・サイエンス」は有効な煙幕になっていました。

 徹底的に均質化された部品で作られた、そして最小限の創造性を育てる機会を根こそぎ奪われ準奴隷労働を強いられた中国人労働者たちによって組み立てられたコンピューターで、国民国家なしには維持できず地球環境に殺人的に危険な原子力発電所で起こされた電気を利用して「脱産業化」と「国民国家の相対化」、そして「創造性の時代の到来」に関する御伽噺のような話を書きまくっている「メディア知識人」たちはあまりに多くて枚挙に暇がないほどです。ダニエル・ベルやアルビン・トフラーのような後期資本主義時代の保守的な理念家たちの影響でこの類の「ポップ・サイエンス」はほとんど一つの産業部門を成している感さえあります。中でも共益的なレベルで最も有害な者から挙げれば、おそらくトロント大学の教授まで務めているリチャード・フロリダ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%80)の話から始めなければなりません。まだ(幸い!)韓国にはあまり知られていないようですが、日本やロシアなどで既に「ビジネス・フレンドリー」な学者や記者たちに彼の話はかなり有効なようです。彼が売り出している主な概念語は「創造的階級」です。もちろん彼が使っているパソコンや携帯電話を作った、10時間以上も組立ラインで働き、疲れ果てて帰宅する労働者たちがこの新しい「社会の中枢階級」に入るはずはありません。この「新しい主導階級」を形成しているのは研究者や学者、高級技術者、そして芸能人や美術家などであり、彼らは「創造性」とともに普通「高い水準の個人主義」を志向し、「均質化」されず個性的なライフ・スタイルを好むというのがフロリダの説明です。つまり、個体化されただけに集団行動を前提とする伝統的な左翼政治とは縁が遠く、権力者たちよ、ご安心なされというメッセージのようなものです。

 もちろん、こんなレベルの話を「理論」と呼ぶことさえ少し恥ずかしいほどです。「創造的な」フロリダ氏が月給をもらっている大学は、資源輸出と製造業製品の輸出などから税制によって所得を上げている国の補助金と補修工事などを担当する建設労働者、施設維持の責任を負う清掃労働者などなしに果して何日間持ちこたえられるでしょうか。先端技術の人材が多いのは核心部の産業資本主義の「克服」ではなく、まさにその発展の結果にすぎず、「創造的な」芸能人などの「芸能商品」らが広く売れるためには、やはりインターネット(すなわち、コンピューターと電力生産)からCD/DVD生産まで高レベルの産業生産、すなわち幾多の低賃金労働者たちが必要なのです。体制はただ彼らから搾取した余剰の一部をフロリダ氏のような「創造的な」作男たちに回せるということであり、フロリダ氏が時間が経つのも忘れて「創造性」に対する熱弁を吐き続けられるほどに余裕があるということはいかなる体制の変化もまったく意味しないのです。もちろん気持ち的には、ほとんど管理者級となった高賃金労働者には低賃金労働者たちの必然性や彼らの実質的な事情に気づき理解することが少し難しいのかもしれませんね。

 「ポップ・サイエンス」はきわめて多様ですが、特に人文、社会科学におけるその著しい特徴の一つは、資本主義とその矛盾、そして帝国主義の存在をなんとしてでも否定しようとすることです。「軟性権力」から「脱産業化時代」まで、ありとあらゆる似非科学的な用語を動員してです。もちろん、まさにその理由で、この体制に忠実に服務するメディアたちは「ポップ・サイエンス」を大きく宣伝しその市場を提供しているのです。しかし、いかに「脱産業化」「創造的階級」の呪文を唱えて見ても資本主義の必然的な破滅的危機の到来を避けることはできません。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/53881 韓国語原文入力:2012/12/06 22:50
訳J.S(3985字)

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