本文に移動

[ヨム・ムウン コラム]討論がなければ民主主義もない

登録:2012-12-05 19:48 修正:2012-12-06 00:00
ヨム・ムウン文学評論家

 米国の著名な法哲学者ロナルド・ドウォーキンは『民主主義は可能なのか』という本で、選挙の民主性は投票それ自体よりも選挙過程の政治的論争がどんな性格のものであるかにかかっていると言ったことがある。 彼が見るに、多数決主義は単にどんな意見が共同体の中でどのように分布しているかを見せるだけであって、それがどのように形成されたのかとは関係がない。 したがって民主主義の真の価値は、意見の分布を解釈する次元にあるのではなく意見が形成されていく次元にある。 すなわち、政治討論の過程こそ民主主義の実現を担保するものだ。 したがってドウォーキンは「政治論争の不在は民主主義に深刻な欠陥があるという意味だ」と主張する。

 ところで今私たちの大統領選挙風景はどうなのか。 主な候補たちが寒い中を毎日全国を強行軍する姿は見ていても気の毒だし、民主主義の核心を実現する過程とも見難い。 もちろん遊説を通じて人々に直に訴えるのも必要なことだ。 過去のシン・イクヒ(1956), キム・デジュン(1971)のように、数十万の群衆の前で熱弁を吐くことが時には国民の政治的熱望を代弁するということであり得た時代があった。 だが、もはや遊説に集まる人の数はきわめて制限的だ。 しかも候補たちの活動と発言は新聞と放送の意図的“編集”を通して伝えられるので、現在のような言論環境では客観性・公正性を保障することも難しい。

 一つ例をあげてみよう。 パク・クネ候補はノ・ムヒョン政府の失敗を取り上げ論じながらその原因の一つが側近人事だと主張して、失敗の重要な責任がムン・ジェインにあると批判した。 反面ムン・ジェイン候補はパク・クネがイ・ミョンバク政権の奥方の役割をしていただけにパク・クネの当選はイ・ミョンバク政権の延長に過ぎないと正面から受けて立った。 ムン・ジェインは初めから参加政府の一部誤りを認めて自身はその経験を基に新しい政治をするのだと力説し、パク・クネは遅れてイ・ミョンバク政権の民生失敗を認め、自身は庶民経済を生かす大統領になると約束した。

 この攻防に動員された命題は多くの政治的争点を包含しており、文字になった主張だけではどちらが正しくどちらが誤っているか判明しない。 明らかなのは遊説場のようなところで単刀直入にこのように話すことは大衆への感性的扇動ではあっても合理的説明ではないという点だ。 たとえば、イ・ミョンバク政府の推進した金持ち減税と財閥特典を国会で阻止できたほぼ唯一の人物がパク・クネだったが、その時は沈黙し今になって新たに庶民経済を語るのは、考えが変わったのか、それとも庶民の票が必要だということなのか。 そうした点を問い詰めて釈明を聞くことのできる機会が、他でもない討論だ。 生産的討論を通じて真実があらわれる過程自体が民主主義的価値の実現である。

 再び争点に戻ってみよう。 ノ・ムヒョン、イ・ミョンバク政権はどんな面でどれほど失敗したのか。 そしてムン・ジェインとパク・クネはその失敗にそれぞれどれだけの責任があるのか。 失敗の原因の一つと指摘された人事問題において、ノ・ムヒョン政府は過去保守言論から“側近人事”と批判され、イ・ミョンバク政府は“情実人事”“回転ドア人事”と批判されたが、その批判はどれくらい実際と符合するのか。 何よりもパク・クネとムン・ジェインが大統領に当選して実践すると打ち出した約束は、果たしてどれほど信じるに足るのか。 ひょっとして5年前のイ・ミョンバクの747(7%成長、4万ドル所得、7大経済大国)の公約のように、一時的トリックで国民をげん惑するのではないのか。

 このような争点が短い問答でそっくり明らかにされるわけではない。 前回のムン・ジェインとアン・チョルスの候補単一化討論も問題点を深く掘り下げることができなくて不満だったが、続いてその翌日行なわれたパク・クネの討論番組は一言で言って見られたものではなかった。 それは討論ではなく、政策に関して教習を受けた内容を暗唱した面接試験に過ぎなかった。 したがってこうした不十分さと不公正を克服して候補の資質と能力を検証するには、彼らが十分に話し自由に反論することができるように充分な時間を与えなければならない。 そしてそれが最も普遍的な媒体、すなわちテレビを通じて生放送で中継されなければならない。 ドウォーキンの言ったように、政治討論がないならばそれはすでに民主主義ではない。

ヨム・ムウン文学評論家

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/563372.html 韓国語原文入力:2012/12/02 19:24
訳A.K(1976字)

関連記事