ヒンド・ラジャブ。この名前だけは覚えていてほしい。3万4535人を覚えきれないのであれば。
この世で送った年数はたったの6年だった。ガザ市で暮らした6年、一日一日は決して楽なものではなかっただろう。それでも、愛情を注いでくれる両親と親戚がいて、楽しく一緒に遊んだいとこたちがいた。その日、叔父といとこたちと一緒に車に乗ったのが過ちだったのか。
イスラエルが行っているパレスチナ人の集団虐殺は遠い国のことだ。自分とは関係ない、と思うかもしれない。それでも、ほんの一瞬でもヒンド・ラジャブのことを考えてほしい。彼女が最期を迎えたのが起亜の自動車の中だったから、というだけではない。
もう3カ月前に起きたことだが、忘れないでほしい。今年1月29日、ヒンドは叔父の家族と一緒に車に乗ってガザ市から脱出を試みた。そうしようとした。だが、永遠にガザ市を離れることはできなくなった。イスラエル軍の銃弾を恐れて逃げようとした。だが、その銃弾のために永遠に逃げられなくなった。
■叔父、叔母、従姉も死に…
永遠に逃げられなくなったのはヒンド・ラジャブだけではない。素朴ながらも幸せな暮らしを築いていた住まいが崩され、学校が破壊され、病院が壊された。3700万トンを超える建物の残骸の下にも、逃げられなかったヒンドたちがいることを忘れないでほしい。生き残った人々が道具もなく素手でいくら片付けても、コンクリートの塊は重く積み重なっていて、焦れながら穴をかき分けてみても、1万人以上がその下におしつぶされている。
ヒンドは最後まで生きていた生存者だった。叔父と叔母が先に殺された。従姉も死んだ。すでに遺体となった彼らが乗っていた車は動くことができなかった。まだ息の残っていた15歳のラヤンが、外国にいる親戚に電話をかけた。
「お母さんとお父さんは死んじゃった。姉さんも死んだ。私とヒンドだけ生きてる」
「心配しないで。怖がらないで。すぐに救急車を送るから。その場にそのままいて」
親戚はすぐにガザ市の赤新月社に連絡した。救助を要請した。ラヤンの電話番号を教え、連絡してくれればラヤンが出ると伝えた。だがイスラエルの戦車はその自動車をそのままにしておかなかった。ラヤンが恐怖におびえた声で電話している間に銃撃した。鈍い銃撃音とラヤンの叫び声が受話器に響いた。電話は切れた。
南アフリカ共和国は昨年12月、国際司法裁判所(ICJ)にイスラエルを集団殺害の疑いで提訴した。集団殺害罪の防止と処罰に関する条約に違反し「パレスチナ人を抹殺しようとする意図を持って集団殺害を行った」ということだ。第2次世界大戦当時、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人集団殺害のような民族浄化などの犯罪の再発を防ぐために結ばれた条約(ジェノサイド条約)だ。その条約にイスラエルが違反したという南アフリカの提訴に、コロンビア、ニカラグア、トルコが賛同した。ICJはこの訴訟を通じてすでに1月26日、集団虐殺防止、ガザ地区の住民の人道的状況の改善など、暫定措置をイスラエルに命じた。その日、ヒンド・ラジャブはまだ生きていたことを思い出してほしい。
その3日後、叔父と叔母、いとこたちがみな殺害された中、それでもヒンド・ラジャブは生きていた。赤新月社のスタッフが再び電話した時、電話に出たのはヒンドだった。戦車が来ている、助けてほしいと訴えた。そして電話が切れた。ところが、再び電話がつながった。ヒンドは生きていた。切れてはつながり、弱々しくなり、また声が聞こえた。「もう暗くなってきてる。真っ暗で怖い」
■イスラエル軍が進入した地域には集団墓地
通話が続いていた3時間、赤新月社は必死に努力した。イスラエル軍の侵攻後、作戦地域には救急車を送るのが不可能な状況だった。しかし、奇跡的に許可を受けた。ヒンドの車があるガソリンスタンドにスタッフ2人が急派された。ところが、ヒンドに近づいていったユスフ・アル・ゼイノとアフマド・アル・マドフーンは、何かおかしいと訴えた。自分たちの救急車をイスラエル軍がレーザーで照準している。そして銃声、爆発音。連絡は途絶えた。ヒンドの声ももう聞こえなくなった。
イスラエル軍が攻撃を開始して200日、ジャーナリスト137人、医療スタッフ356人、国連の救援機関スタッフ178人が殺害された。4月末までにパレスチナ人7万7704人が負傷し、3万4535人が虐殺された。そのうち70%が女性と子どもだった。このすべての数字が意味をなさないならば、ヒンド・ラジャブだけでも考えてほしい。
イスラエル軍が退却してやっと親戚は戻ることができた。連絡が途絶えてから12日目、その時になってようやくヒンド・ラジャブの遺体は収拾された。起亜の車は蜂の巣になっていた。すぐ隣に救急車があった。ユスフとアフマドの遺体もそこにあった。完全に破壊された救急車の近くには、ミサイルの破片も散らばっていた。M830A1、米国製の戦車破壊ミサイルだった。その後、米国はイスラエルへの260億ドルの支援を決定した。パレスチナにも10億ドルの人道支援を割り当てた。
イスラエル軍が進入し去っていった場所では、集団墓地が発見されている。ナセル病院の敷地で遺体400体余りが埋められた集団墓地が発見された。アル・シファ病院の敷地でも集団墓地が発見された。
アントニオ・グテーレス国連事務総長も、集団墓地に対する国際調査を求めた。手が縛られていたり、裸にされた状態で、あるいは病院のガウンを着た状態で、治療用の医療チューブが挿入された状態で埋められた遺体の名前はわからなくても、ヒンド・ラジャブは覚えていてほしい。
今、ラファには140万人の避難民が集まっている。イスラエル軍の虐殺と破壊を逃れて家を捨ててきた人々が集まった最後の避難所だ。避難民は最後の避難所で飢え死にするか、病気で死ぬかの選択を迫られている。イスラエルはここも攻撃すると公言している。ヒンド・ラジャブはガザ市を抜け出すために最後の力を尽くしたが、彼女に安全な避難所はあったのだろうか。
ハマスのイスラエル攻撃で1200人が殺害された。136人がまだ人質に取られている。このうち何人が生きているかは確認されていない。彼らの命のためにも、ヒンド・ラジャブを覚えていてほしい。コロンビア大学の学生たちが占拠したハミルトンホールを「ヒンドのホール」と命名したことも覚えていてほしい。