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「明成皇后殺害、存外容易にして…」126年前の「日本の外交官の手紙」発見

登録:2021-11-17 02:32 修正:2021-11-17 07:19
公使館領事官補だった堀口九万一の126年前の8通の手紙 
日系米国人が名古屋の古物市場で入手 
「自分たちが王妃を殺害した…進入は私の担当任務」
朝日新聞のウェブサイトより//ハンギョレ新聞社

 日本の外交官が、明成皇后(閔妃)殺害事件に自分が加担したと知人に打ち明けた126年前の手紙が発見された。明成皇后の死に日本の現職の外交官が直接加担していたことを示す貴重な資料だ。

 朝鮮公使館の領事官補だった堀口九万一(1865~1945)は、明成皇后殺害翌日の1895年10月9日に新潟県の友人に送った手紙に「自分たちが王妃を殺害した」とし、明成皇后殺害事件の経緯を詳しく記していた。日本の朝日新聞が16日付で報じた。堀口はこの手紙で「進入は予の担当たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と記している。彼は「存外容易にして、却ってあっけに取られ候」と感想も記している。彼は、日本の外交官、警察、民間人などからなる明成皇后殺害の実行グループの1人だった。

 今回発見された堀口の手紙は、1894年11月17日付から乙未事変直後の1895年10月18日付までの8通で、名古屋市に住む日系米国人スティーブ長谷川さんが古物市場で入手したもの。毛筆の手紙の内容は、明成皇后殺害事件を扱った本『朝鮮王妃殺害と日本人』の著者で在日同胞学者の金文子(キム・ムンジャ)さんが解読した。金さんは「事件の細部や家族についての記述などからも、本人の真筆とみて間違いない。現役の外交官が任地の王妃の殺害に直接関与したと告げる文面に改めて生々しい驚きを覚えた」と述べたと同紙は伝えた。

景福宮の一部。1895年10月8日、景福宮において明成皇后が日本の軍や外交官、警官などからなる日本人グループによって殺害された=資料写真//ハンギョレ新聞社

 乙未事変とは、1895年10月8日に日本陸軍出身で朝鮮公使の三浦梧楼(1847~1926)の指揮の下、朝鮮国内で活動していた日本の「大陸浪人」(民間人の身分で日本の東アジア侵略のために活動していた人物たち)や日本軍、警察などの一部兵力が、訓練隊の禹範善(ウ・ボムソン)第2大隊長などの一部の朝鮮人と共に景福宮を奇襲し、明成皇后を殺害した事件。彼らは明成皇后を殺害した後、遺体に石油をかけて燃やした。末松謙澄(1855~1920)法制局長官は当時の報告書で「本当に筆で書くことは耐えられぬが…」と但し書きをつけ、当時行われた行為を具体的に記している。

 明成皇后殺害は、かつては大陸浪人が中心となった犯行だとされていたが、近年は、堀口のような現職の外交官を含む公的地位を持つ日本人が、実行においても重要な役割を果たしていたことが明らかになっている。

 ただし、明成皇后を実際に刺した人物は、正確には特定されていない。当時、朝鮮公使館の一等領事だった内田定槌は事件当日、原敬外務次官(当時)に送った報告で、明成皇后を刺した人物は「某陸軍少尉」だと述べているが、その他にも様々な人物の名が挙がっている。

 朝鮮は不平等条約だった1876年の日朝修好条規(江華島条約)の治外法権条項に阻まれ、明成皇后殺害に加担した日本人に対する裁判権も行使できなかった。彼らは事件後、日本に送還されたが、処罰はされなかった。事件翌年の1月、8人の日本陸軍将校が広島での軍法会議で無罪判決を受け、堀口ら48人も広島地方裁判所で証拠不十分とされ、免訴処理され釈放された。朝鮮は日本に強制併合されるまで、不平等条約を改正することができなかった。

チョ・ギウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1019515.html韓国語原文入力:2021-11-16 15:34
訳D.K

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