明仁天皇の在位期である平成(1989年1月8日~2019年4月30日)の終わりを翌日に控えた29日、東京台東区にある大型文具店シモジマに入ると、店舗の最前面に“平成”と大きく書かれた書類保管用ファイルが陳列されていた。ファイルの裏面には、この時期に起きた主要事件が年度別にぎっしり記されていた。NHK放送はこの日、明仁天皇の一代記を扱ったドキュメンタリー『天皇 運命の物語』を4編連続放映し、新聞も過去30年を回顧する特集記事を載せた。
平成の最後の日である30日には、各種の記念行事が開かれる。高さ634メートルの東京の名物スカイツリーでは、午後10時から「ありがとう平成」という名前で日章旗形の光を電波塔に投影する行事を行う。池袋のサンシャインシティ60ビルディングの展望台では、年号が令和に変わる深夜12時に合わせてカウントダウン行事も準備されている。天皇の退位式は午後5時に東京の皇居で開かれる。
日本人にとっての平成期は「複雑な時代」だった。「天地、内外ともに平和が達成される」という意味にふさわしく平和が続いたが、国力はピークを経過して衰退した。NHKが昨年9~11月に成人3554人を対象に実施したアンケート調査(複数応答許容)で、79%が平成期に対して「戦争がなく平和だった」と答えた。しかし「経済的に豊かだった」という答は40%に終わった。朝日新聞の昨年3~4月のアンケート調査でも「揺れ動いた時代」という応答が42%で最も多く、「低迷した時代」(29%)が後に続いた。「明るい時代」という応答は5%にとどまった。
ある50代の日本のジャーナリストは、ハンギョレにこの時期を「平和だったが幸せなことはなかった時代」と要約した。その前の裕仁天皇の昭和期には、戦争の痛みを体験したが、1945年の敗戦以後は高度経済成長がなされた。そのために、日本人は昭和期を希望にあふれた「肯定的時代」として記憶する。日本は、戦争を否定した平和憲法の下で経済発展に重点を置き、驚くべき成果を成し遂げた。敗戦からわずか23年後の1968年、日本は国内総生産(GDP)基準で米国に次ぐ世界2位の経済大国に躍進した。
平成期に入り経済の矛盾が一気に爆発した。バブル崩壊直前の1989年12月29日、日経指数は3万8915まで沸き騰がったが、30年が経過した29日現在は2万2000台に留まっている。経済規模は2010年に中国に押されて3位に下がった。
日本の企業家は、平成期の経済を「敗北」という一語で整理する。経済3団体の一つである経済同友会の代表幹事を務める小林喜光氏は、雑誌「文藝春秋」4月号「日本経済 平成は『敗北』の時代だった」という文を載せた。彼はこの文で、日本は次世代通信規格の5世代(5G)通信などで米・中国企業らに負けているとし、「基幹技術を米国、欧州、中国から持って来れなければ、産業と社会の立つ場所がなくなるだろう」と警告した。人口も少子化の影響で2008年に1億2808万人でピークに達した後、10年連続で減っている。この時期は、阪神大震災(1995)、オウム真理教事件(1995)、東日本大震災(2011)などの事件・事故が起きた時期でもあった。
経済の不振が続き、日本社会は内向的に変わった。放送では、日本製品と文化の優秀性を強調する番組が流行している。ある30代の日本の会社員は「東日本大震災以後、ますます『日本はすごい』と褒め称える番組が増えた。以前は反対に海外旅行を扱った番組が多かった」と話した。
こうした流れをリードしている人物が、2012年12月に再登場した安倍晋三首相だ。安倍首相は「日本を取り戻す」というスローガンを前面に出して再執権した後、日本のアイデンティティを強調する愛国主義教育を強化した。安倍政権に鋭い批判を向ける中野晃一上智大学教授は、ハンギョレとのインタビューで「日本の政治が過去の『利益(配分)』から『アイデンティティ』を強調する形に変わった」と診断した。それによって日本社会には『ヘイトスピーチ』に象徴される排外主義的ムードが拡散している。共同通信の先月の調査を見れば、日本人の57%が平成期を他者に対して「非寛容になった時代」と答えた。