「これは頭蓋骨の一部です」
15日、沖縄県中部の宜野座村惣慶(そけい)で、具志堅隆松さん(64)が地中1メートルから小さな骨片を取り出した。彼は28歳の時から沖縄戦で犠牲になった遺骨発掘作業を行っている市民団体「ガマフヤー」(洞窟を掘る人という意味)を率いてきた平和活動家だ。
この日の遺骨発掘作業は、海水浴場として使えるほど美しく長い砂浜が広がる海辺のすぐそばで行われた。生い茂った亜熱帯性の木々の森を抜け5分ほど歩くと、発掘現場が現れた。作業現場では死亡した人の名前を書いた数枚の割れたレンガや瓦が発見された。人を埋めたという表示で、家族たちが立てておいたレンガだと推定される。具志堅さんは「その後、家族が遺骨を収拾し、それを示すためにレンガをわざと割っておいたのだろう」と言い、「朝鮮人は家族がいないため、遺骨がそのまま放置されたケースが多い」と述べた。
沖縄戦は、日本が敗北を目前にした1945年4月から6月末までの約2カ月間にわたって行われた無謀な戦争だった。「本土決戦」のための時間稼ぎのため、日本人、沖縄人はもちろん、強制動員された朝鮮人や台湾人など約20万人が虚しい死を遂げた。
米軍はこの日発掘が行われた惣慶に、沖縄の民間人を戦争の惨禍から保護するための「宜野座収容所」を建てた。具志堅さんは「民間人は収容所で米軍に保護されなければならなかった。だが、食糧不足のため伝染病マラリアが蔓延し、多くの人々が亡くなった」と語った。
この収容所には約3000人が収容されていたとみられるが、正確な数字は把握されていない。収容者の大半は沖縄人だったが、朝鮮人が混ざっていた可能性もある。具志堅さんは「沖縄戦の特徴は、犠牲者に民間人が多く、正確な死亡場所と日時を知るのが難しいという点」だとし、「朝鮮半島出身もどこでどのように犠牲になったのかちゃんと把握されていない」と話した。宜野座収容所のような民間人収容所は、1946年まで沖縄の至るところに残っていた。米軍の民間人収容所に、当時沖縄の人口の半分を超える33万人が収容されていたと推定される。
沖縄戦では少なからぬ朝鮮人が亡くなったと推定される。一例として、1945年に米国の「LIFE」誌に掲載された沖縄北部の本部(もとぶ)の墓標の写真に「金山萬斗」「明村長模」など創氏改名された朝鮮人であることが明らかな名前が数多く登場する。これらは日本人歴史研究者の竹内康人氏が集大成した朝鮮人強制動員者名簿を通じて、日本軍「軍属」であったことが確認されている。
残りの課題は、今後朝鮮人の遺骨が発掘されたとしても、これを確認する方法がないという点だ。日本政府は2016年4月、「戦没者遺骨収集推進法」を制定し、太平洋戦争時に死亡した日本人の遺骨収集に積極的に乗り出す方針を打ち出した。しかし、対象を「わが国(日本)の戦没者遺骨」に限定した。そのため日本の遺族は自分のDNAと遺骨のDNAデータとを照合して遺骨を探すことができるが、韓国人はそうできない。この問題に対する韓国遺族の抗議が相次いでいるにもかかわらず、厚生労働省は「韓国政府から具体的な提案があれば検討する」という立場だけを繰り返している。沖縄で死亡した韓国人の遺骨が故国に戻った事例は、日本軍にスパイとされ虐殺されたク・ジュンフェ氏(1977年返還)のみだ。
この日、宜野座収容所の遺骨発掘作業は、韓・日・在日コリアン市民が共同で開催した「2019年東アジア共同ワークショップ」の一環として行われた。日本人、韓国人、在日コリアン、台湾人など約30人が一緒にスコップを持ち、汗を流した。
沖縄の朝鮮人遺骨問題を長い間研究してきた沖本富貴子氏も「戦争が終わって74年が経ったが、多くの遺骨は遺族のもとに戻れなかった。日本政府は戦争に対する反省もない」と話した。東アジア共同ワークショップは、2015年9月には「70年ぶりの里帰り」という名で北海道のある寺に保管されていた朝鮮人遺骨115柱を故郷に奉還した。