登録 : 2017.03.09 23:43 修正 : 2017.03.10 06:30

福島原発事故、その後

6日午前、福島県福島市。アスパラガスのビニールハウスで会った杉原ヨシユキ(56・左側)、ケイコ(54)夫婦。夫婦は6年前に起きた3・11原発事故を乗り越えるためにアスパラガス栽培に挑戦している。しかし問題は依然として「販路」だ=福島/キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社
「私は(福島県)双葉町の出身です。東京電力福島第1原発があったところ」

 6日、福島県の北部にある福島市のある農業用ビニールハウスで会った杉原ケイコさん(54)は苦笑いした。3・11東京電力福島第1原発事故が起きてから今年で6年の歳月が流れた。

 原子力発電所事故で故郷を失った夫婦は、長い避難生活の末に2015年に捨てられていた農耕地を開墾しアスパラガス栽培を始めた。夫婦は今年1月、初めて自分たちが育てたアスパラガスを出荷することができた。ショックを乗り越え再起の踏み台を用意したが、原発事故の傷は相変わらず大きく残っている。

杉原夫婦「苦難の異郷暮らし」
原発から半径20キロメートル外の故郷の土地も
放射能かぶり不毛の地に
「原発は“福の神”だと思ったが裏切られた」
避難先の耕作放棄地にビニールハウス建て
アスパラガス栽培で「再起の夢」
故郷は懐かしいが未だ統制区域
3・11事故の傷は現在進行形

 「夫の故郷は(福島県)飯舘村で、私は双葉町です。幼い時から原発のそばで育ちました。幼い時は父親が農作業のない冬には出稼ぎに行っていました。でも(1970年代初めに)東京電力の原子力発電所(福島第1原発)ができてからは、父親は(原発で安定した仕事を見つけて冬でも)いつも家にいられるようになりました。それが原発に対する私の記憶です」

 ケイコさんのように福島の“浜通り”(原発が密集した海側地域)の人々にとって原発は有難い存在だった。日本でも辺鄙な地域に挙げられる福島の海岸地帯にできた原子力発電所は、地域住民たちに安定的な働き口と少なくない補助金をもたらした“福の神”だった。ケイコさんの父や兄はもちろん、周辺の大熊町・浪江町などに暮らしていた親戚の大部分が原発関連の仕事で暮らした。彼女は「原発で事故が起きるなんて全く思わずに何十年も生きてきた。それで(3・11原発事故が起きた時)裏切られた思いだった」と話した。兄は今も事故を起こした第1原発で進行中の廃炉作業に従事している。

アスパラガスは栽培期間が長く、温度管理が難しく育てにくい作物だ。ヨシユキ氏は「冬に市場に出ているアスパラガスはほとんどが外国産なので、国産を供給してみたかった」と話した=福島/キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 6年前の“その日”、ケイコさんは夫のヨシユキ氏(56)と一緒に夫の故郷である飯舘村長瀞地区に住んでいた。夫婦は会社員だった夫が定年退職した後には農作業をすると心を決めていた。栽培作物はその時からアスパラガスを選んでいた。作物選定を終えたケイコさんは、2009年頃から隣人を集めて作物栽培に乗り出した。商品として出せる幹の太いアスパラガスを収穫するには、3年程度の時間がかかる。長期にわたり精魂を込めて、ようやく初めて作物を出荷する時期が来た時に3・11原発事故が起こった。

 ケイコさんが暮らしていた飯舘村は、原発事故が起きれば避難指示が下される半径20キロメートルの外にあった。放射性物質が遠く離れた飯舘村まで飛んでくるとは想像もできなかった。

 3・11原発事故以後、福島原発1・2・4号機で水素爆発が起き、ケイコさんは婚家と実家の両親を迎えて娘が看護師として勤めている会津若松に一時避難した。娘が一人で暮らしていたワンルームで7人が暮らした。夫婦は結局、3月末に再び飯舘村に戻ることにした。当時、政府は明確な情報を公開していなかったが、爆発で原子炉が損傷した後に起きた風の影響で人体に致命的な影響を及ぼす放射性物質は飯舘村全域に降った後であった。ケイコさんは「放射能は目に見えないのでどんな状況かわからなかった。少し後になって防護服を着た人々が村に押しかけて来た」と話した。ようやく事実を悟ったのはその頃だった。飯舘村に避難指示が下されたのは4月22日だったが、避難する場所がなくて夫婦は6月末まで放射能で汚染された自宅に留まらざるをえなかった。

日本政府と福島県は、福島県産農水産物の安全性を証明するために種々の努力を傾けているものの市場の不信感は拭えていない。福島県農業総合センター関係者は今は基準値を超えるサンプルはほとんどないと強調した=福島/キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 避難生活を続けながらも、夫婦は希望のひもを放さなかった。結論は「再びアスパラガス」だった。ヨシユキ氏は「日本で冬に売られるアスパラガスはほとんどがメキシコなどの外国産だ。国産アスパラガスを冬でも供給できるように再び挑戦したかった」と話した。夫婦は行政機関の支援を受けて、現在の耕作地を見つけた。雑草が生い茂る「耕作放棄地」を開墾してビニールハウス4棟を建てた。

 夫婦は今年1~2月に栽培したアスパラガスを毎日5キロずつ出荷した。3~4月にはハウス前の露地で栽培した作物の収穫が待っている。問題はやはり「販路」だ。日本政府と福島県は「県内の農水産物は徹底した放射能検査を実施しており安全だ」と言うが、日本国内でも福島産農水産物を忌避する現象は相変わらずだ。夫婦は「相変らず赤字だ。多額の投資をしたが回収できるかどうかも分からない」と不安な表情を見せた。

 置いてきた故郷に対する心境は複雑だ。ケイコさんは「住んでいた家は地震で屋根が崩れ、雨漏りしてまったく戻れる状況ではない」と話した。懐かしそうに長い回想が続いた。「飯舘村は良いところでした。山に登って一時間もあればまるで買い物に行ってきたように籠いっぱいの山菜を獲ることができました。夏でも涼しくて扇風機は必要ありませんでした」。声が湿っぽさがこもっていた。

 飯舘村の他の地域は3月31日に避難指示区域が解除される見込みだが、夫婦が暮らしていた長瀞地区は汚染が激しくて、依然として戻ることはできない。3・11事故で一時避難指示区域に指定されたが現在は解除されたところに暮らしていた人は計5万2370人だ。だが、帰還を実行した人はその7.9%である4139人に過ぎない。彼らはほとんどが放射能被害を甘受しても生まれ育った故郷で生きて死にたいと願う高齢者が大部分だ。6年の歳月が流れたが、3・11は今も進行形だった。

福島/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-03-09 18:35
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/785785.html 訳J.S(2784字)

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