本文に移動

‘日本 強制徴用現場’で韓・中・日・台の市民が平和の道を探す

登録:2014-02-20 21:29 修正:2014-02-20 23:32
[世界ズームイン] 18回を迎えた‘東アジア平和ための共同ワークショップ’
15~17日、北海道の北西部、朱鞠内の廃寺刹 光顕寺で、韓国、日本、在日コリアン、台湾、中国、アイヌなど多様な背景を持つ90人余が参加して‘東アジア平和のための共同ワークショップ’が開かれた。

日本 北海道の辺境の地 朱鞠内
太平洋戦争の時、鉄道・ダム建設の現場
韓・中・日の労働者たちの遺骨があちこちに
1976年 遺骨返還運動 開始

1997年からはワークショップ開催に意気投合
毎年 東アジアの若者たちが平和討論
今年も‘嫌韓デモ’等、真剣な議論
"言葉が通じなくとも説得を放棄してはならない"
"ひとまず何の説明もなしで映像を見ましょうか?"

 在日コリアンが集まって作った市民団体であるコリアNGOセンターのキム・グァンミン事務局長が、本堂内の灯を消して映像をスタートさせた。 15日夜、日本 北海道の北西部の小村 幌加内町 朱鞠内地区にある廃寺刹 光顕寺には韓国・日本・中国・台湾の市民たちと北海道札幌にある北星学園大学付属高等学校、ドキュメンタリー映画<ウリハッキョ(私たちの学校)>(2006年)の舞台になった北海道朝鮮学校の生徒たちが多数集まった。 前面に設置された画面に2009年から最近までの‘在日特権を許さない市民の会’(以下、在特会)が行ってきた‘嫌韓デモ’映像が流れると場内は静まりかえった。

 "おい、そこ の朝鮮人!朝鮮人のプライドがあるなら出てきて殺されろ"(2011年11月 東京小平市朝鮮大学前) "ここで南京大虐殺ではなく'鶴橋大虐殺'を起こしますよ!" (2012年大阪 鶴橋)。 映像が終了するとキム事務局長は "ここに東アジアから来た色々な人が集まっている。ナショナリズム(民族主義)と愛国心とは何か、一緒に話をしてみたら良いでしょう」と話した。

 日本 北海道でも辺境地に選ばれる朱鞠内には1997年以来、すでに18年にわたって毎年東アジアの若者たちが集まって平和を討論する‘東アジアの平和のための共同ワークショップ’が開かれている。 ところでなぜ朱鞠内なのか。太平洋戦争が行われた1930年代末~1940年初めに至る時期、こちら朱鞠内では北海道の山林資源を輸送するための深名線鉄道とその周辺を流れる雨竜川にダムを建設する大規模土木工事が繰り広げられた。 工事を担当した人々は日本各地と朝鮮・中国から連れて来られた労働者たちだった。 彼らはタコ部屋と呼ばれる監禁施設に閉じ込められ栄養不足と苛酷な労働に苦しめられ、それによって亡くなる人々が続出した。 光顕寺は周辺の工事現場で労働者が亡くなれば葬儀を行う前に遺体が一夜を送った寺だったのだ。

 こちらで起きた悲劇の歴史を再び掘り起こしたのは地域の市民たちだった。 中心人物は周辺の多度志にある一乗寺の住職である殿平善彦(68)だった。 市民たちは1976年‘空知(北海道北西部にある内陸地域の地名)民衆講座’を作って過去に起きた強制労働の惨状を記憶している在日コリアンを捜し出して、その人々の助けを得て闇に埋蔵されていた朝鮮人労働者の遺骨を発掘し遺族たちに返還する運動を始めた。

光顕寺にはこの周辺で繰り広げられたダムと鉄道工事の過程で亡くなった日本人・朝鮮人の位牌が祀られている。 こちらで亡くなった人々は日本人168人、朝鮮人45人と推定される。

 この運動に積極的に参加した在日コリアン チェ・マンジン(故人)の息子チェ・ホンチョル(60)氏は「高校生の時、地方自治体が保管していた朝鮮人の埋火葬許可証を確認し、韓国の住所地に手紙を送った。 するとすぐに韓国の遺族たちから返事が続々と届いたことを思い出す」と話した。 そこへ1989年一乗寺で運営中の共同育児型式の保育園を研究するため殿平善彦氏を訪問したチョン・ビョンホ漢陽大考古人類学科教授が意気投合したことを契機に、1997年東アジアの若者たちが一堂に集まるワークショップが始まった。 そのような歴史的背景を象徴するように、寺の本堂内には日本人・朝鮮人労働者の位牌、強制労働が行われた時期の惨状を示す物品と白黒写真などが展示されている。 また、寺の本堂は1995年から‘笹の墓標展示館’(北海道で多く育つ笹の下に朝鮮人の遺骨が埋まっているという意)という名前がついた展示館として運営中だ。

 重い空気の中で日本の高校生たちが準備してきた主題に関して発表を始めた。 「これを見てただとても腹が立ちました。 私は差別が嫌いです」(17・サトウ・リュウノスケ) "本当に深刻だと思いました。 このような事実がもっと知らされなければなりません。" (17・イシヅカ タイチ) しかし、本堂には少しずつ緊張が漂い始めた。 "在特会の言葉が間違ってはいないと思うが、(表現方式が)日本人としてみじめに感じられた" とか、 "在日コリアンが実名を脇に置いて通名(日本式の名前)を使うことは特権ではないか" という意見も出てきたためだ。

 反論が相次いだ。 "私も高等学校の時まで、トクヤマ リナという日本式の名前を使っていました。 でも過ぎた歴史を知る中で、この名前が強制的に付けられたものだということを知るようになりました。 なぜその時、もっと自信を持って生きられなかったのかと思います" (ホン・リナ・在日コリアン) "山手線(東京の環状電車路線)で、在日コリアンの女子学生が着ていたチマチョゴリをはさみで切られる事件がありました。 在日コリアンはいつもそのような危険に置かれています。 それで、自分を守るために通名を使っているという側面もあります。" (日本人高等学校教師) "日本の小学校に韓国人活動家が訪問して講演をする姿を見たことを思い出します。 名前を訊かれて子供たちが鈴木、山本、中山などの日本式名前を答えました。 するとその活動家は、明日から‘君はマイケル、君はスチーブン、君はジョンと呼ぶ’と言いましたよ。 すると子供たちはしばらく黙っていましたが、一斉に‘嫌だ’と叫んだのです。 在日コリアンにとって通名とは、選択されたものではなく強要されたものです。" (チェ・ホンチョル) 討論はますます熱くなり、私と考えが違う人がいる時は、説得しなければならないのかまで拡大していった。 旭川教育大学から来たある学生は「いくら真心を伝えようとしても、多くの人々は(日本の戦後責任の問題などについて)関心がない。 彼らの心を動かすことができない」としてむせび泣いた。 笑いと涙が交錯する多様な告白の中で、小林千代美 元衆議院議員(民主党)が力を込めて立ち上がり話を受けた。 「意見が異なる人と戦わなければならないということは非常に悲しいことですね。私も以前国会でそうでした。 非常に苦痛でくたびれることだが、あきらめてはいけません。 そのようにしながら友人を広げていかなければなりません。」 討論を終えた彼らが肩を組んで、‘アチムイスル(朝露)’、‘臨津江(イムジンガン)’(韓半島の分断状況を謳った歌。 在日コリアンの哀歓を込めた映画<パッチギ(頭突き)>(2004)に使われ有名になった)‘ふるさと’を歌ってお互いを慰めた。 18年間続いてきた東アジア人たちの小さな出会いは今までがそうだったように来年の冬にもこちら光顕寺で続くだろう。

朱鞠内(北海道)/文・写真 キル・ユンヒョン特派員 charisma@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/625163.html 韓国語原文入力:2014/02/20 20:12
訳J.S(3211字)

関連記事