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虐殺を覆い隠そうとした「全斗煥の3S政策」…大衆は「愚民化」しなかった

登録:2021-11-26 06:41 修正:2021-11-28 21:19
国民の目と耳を覆うための「3S政策」展開 
プロ野球の発足、官能映画の量産など 
 
一方では民衆文学や映画、マダン劇も勢いを増し 
80年代の民主化運動の牽引役に
始球する全斗煥。大統領記録館のウェブサイトよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社
1981年に汝矣島広場で開かれた「国風81」/聯合ニュース

 全斗煥(チョン・ドゥファン)にとっては、5月の虐殺は必ず消さなければならない記憶だった。当時のホ・ムンド大統領府公報秘書官が企画したことで知られる「国風81」を、光州(クァンジュ)民主化運動1周年の10日後に開催したのは、偶然ではない。「国風81」では、歌謡祭・演劇祭・学術祭や農楽・仮面劇・国弓などの伝統文化と各国の食べ物などのイベントが行われた。「チョ・ヨンピルと偉大な誕生」、「シン・ジュンヒョンとミュージックパワー」、ソン・チャンシク、キム・チャンワンなど最高のミュージシャンを呼び、大学生が参加した歌謡祭では、ソウル大学のバンドに大賞を与えた。全国197大学の250のサークルから約6000人の大学生が参加したという記録もある。大衆の関心を政治から他の方向に向けさせ、建国以来最高の祭典を開いたという記録を残すための官制イベントだった。

 政権の正当性どころか虐殺で始まった全斗煥は、皮肉なことに「文化」では多彩な変化をもたらした。プロスポーツの開始、政治を除く分野での検閲緩和、夜間通行禁止の解除など、いわゆる3S(Sex、Screen、Sports)政策を通じて大衆を魅惑しようとする意図があったが、結果は多少逸れていった。緩和された抑圧は、大衆を愚民化させるのではなく、民主主義に対する熱望と自由意識を鼓吹する方向に流れた。朴正煕(パク・チョンヒ)が禁止曲にした「朝露」が若者層を中心に人気曲となったのは1980年代だ。 1970年代には「揺れ動かずに」などいくつかしかなかった運動歌謡は、1980年代に爆発的に量産され、民主化運動の牽引役となった。大衆は政権が望む方向に無条件で流れるほどまぬけではなく、かと言って常に正しい選択をする賢明な集団でもない。右往左往するが、時には重要な選択をして歴史を作っていく。一時後退して、自ら滅亡したりはするが。

1981年に汝矣島広場で開かれた「国風81」/聯合ニュース

 全斗煥により緩和された文化政策が可視化されたのは、1982年1月の夜間通行禁止の解除だった。通行禁止の解除は深夜という新しい空間を作りだした。深夜劇場と深夜喫茶店、街頭の屋台、深夜観光などが生まれた。そして、12月11日にはプロ野球が発足した。以後、プロサッカーのスーパーリーグ、バスケットボール大祭、民俗シルム(韓国相撲)などが続いた。初代体育部長官として盧泰愚(ノ・テウ)が任命され、1986年のアジア大会と1988年の五輪を開催するための準備が周到に進められた。ヒトラーが1936年にベルリン五輪を開催し、虚飾の国民統合と独裁体制の狡猾な宣伝を試みたように、プロスポーツの活性化を通じて、プロ野球とバスケットボールなどは瞬く間に国民全体の娯楽として定着した。熱狂的なサッカーファンである全斗煥の好みが、スポーツ活性化につながったともいわれる。

 映画界にもある程度の自由が与えられた。小規模劇場の開館が可能になり、検閲が比較的緩和された。朴正煕政権時代は、映画会社は許可制だった。維新憲法が発効された後の1973年に改定された映画法を通じて、映画会社の設立には保証金が必要になった。既存の許可を無視し、再登録した12社の映画会社だけが許可された。映画を3作品製作すれば1作品の外国映画を輸入できる権利を与えた。当時の映画法は、映画の振興のための法律ではなく、映画会社を徹底的に統制するための手段だった。検閲も厳しく、政治的な題材はもちろん、社会的な問題点や現実を見せるすべてのものが禁止された。

1982年3月27日のプロ野球開幕戦=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 全斗煥は1984年に「映画芸術の育成」を指示し、1985年に映画法が改正された。映画会社の許可制が登録制に変わり、小規模プロダクションの設立も可能になった。本紙の1989年9月23日付の記事によると、1988年までに69社、1989年には18社のプロダクションが作られた。引き続き検閲の問題はあったが、多くの人々が様々な映画を製作できる合法的な手段が生じたのだ。1980年代中頃から、独立映画団体と作品が徐々に登場するようになった。

 しかし、全斗煥時代の1980年代の韓国映画といえば、「エロ映画」がまず思い浮かぶ。全斗煥の3S政策を受け、官能映画が生まれたともみなせる。しかし、検閲が激しくなると、メジャー文化で扱える領域は狭くなる。社会的な批判や告発は可能な限り隠喩にまわし、私的な隠密さに集中する流れが生じる。1982年に『愛麻夫人』が韓国社会を揺るがす前の1970年代にも、『星たちの故郷』(1974)、『ヨンジャの全盛時代』(1975)、『冬の女』(1977)など、いわゆる「ホステス映画」は人気だった。本質的に朴正煕の維新時代は、すべてのものを暴圧的に抑えつける暗黒期だった。

 歌が少しでもメランコリックだったり悲しみを帯びたものであっても、退廃的で社会風紀を乱すという理由で禁止曲にし、性と暴力を激しく描写するすべてのものを禁止した。朴正煕をはじめとする支配層は料亭で非倫理的な享楽を楽しみ、中央情報部が罪のない人々にあらゆる暴力を振るっても、国民は道徳的でつつましく暮らさなければならないとし、偽善を装った。

 そのような点で、全斗煥は露骨であり幼稚だった。スポーツと遊興を許しながらも、政治権力への脅威となれば無慈悲な暴力を行使した。世界的に1980年代の軽薄でだらけた時代精神に合致した政策が3Sでもある。維新体制と比較すると、全斗煥は、スポーツと娯楽をやや自由に開放した。成人映画は『愛麻夫人』以後、韓国映画界を揺るがした。1982年の韓国映画56作品のうち35作品、1985年に制作された韓国映画80作品のうち60作品以上が成人映画だった。しかし、『膝と膝の間』(1984)、『桑の葉』(1985)、『於宇同』(1985)、『かんかん照り』(1985)などを考えてみると、成人映画にも秀作は登場した。検閲が緩和されれば、それだけ想像力と思考の幅は広がる。当時、成人映画が増えることになったことにはビデオ市場の拡大とも関連がある。『野いちご』『赤いさくらんぼ』『夜市』などの成人シリーズがビデオ市場を席巻した。

映画『於宇同』のポスター//ハンギョレ新聞社

 全斗煥政権は、スポーツと大衆文化で少々ガス抜きをさせ、官制民族文化を注入する政策を試みた。すべては矛盾に溢れていた。自由を与えながらも一定の線を超えられないようにし、民族文化を主張しながらも大学と在野の「民族文化」は弾圧した。『愛麻夫人』のタイトルに「馬」の字を使えないようにして「麻」の字を用いたのはよく知られたコメディだ。馬の代わりに大麻を愛した女性の方がもっと危険ではないのだろうか。民主化を要求する運動圏でも、民族文学、民族映画、マダン劇など、私たちの現実を反映し民族情緒を強調する文化を志向した。自由や民族についても、同じ言葉を使いながらも、互いに志向と領域は異なっていた。

 しかし、全斗煥政権の文化政策は、基本的には愚民化を目的としていた。政治に対する関心を他の方向に向けようとした目的があからさまに示されたためだ。維新に対する大衆の怒りのため、同じ手法で政権を維持することが負担だったというのも理由としてあったのだろう。クーデターと虐殺で樹立した政権を維持するためならば、いかなる手段でも動員したのであろう。しかし、基本的に3S政策を維持したとしても、大衆は必ずしも彼らの目的どおりにはついて行かない。ついに1987年の6月抗争が起き、さらに10年が経過して政権の交替があり、制度的な民主主義も成立した。ならば、大衆の意識の変化と要求に応じ、政策も世界も変わったと言うべきではないだろうか。現在の韓国文化が世界を揺るがしている理由も、やはり民主主義の成就に根源があるはずだ。

キム・ボンソク|大衆文化評論家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1020817.html韓国語原文入力:2021-11-25 20:44
訳M.S

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