90年前の1931年5月29日早朝、植民地朝鮮の平壌(ピョンヤン)。乙密台(ウルミルテ。三国時代の望楼)の前に平壌市民が集まっていた。屋根の上にはか細い体格の女性が一人しゃがんでいた。2年前に襲った世界大恐慌の影響で、賃金を17%も削減するという社長の通知に抗議して、48人の女性労組員とともにストライキを行いハンストに突入したその日の未明に解雇通知を受けたピョンウォンゴム工場の30歳の労働者、カン・ジュリョンだ。彼女は語り出した。
「我々は、49人の我々スト団の賃金削減は大したことだとは考えていません。このことが結局は、平壌の2300人のゴム職工の賃金削減の原因になるからこそ、我々は死を覚悟で反対するのです。私は、ピョンウォンゴムの社長がこの前に来て、賃金削減宣言を取り消すまでは決して下りて行きません」
韓国の労働運動史上初の高空座り込みとして記録されたこの出来事で「滞空女」と名づけられたカン・ジュリョンは、決起の大義名分として同じ仕事をする他工場の労働者の賃金削減に反対する考えを明らかにした。彼女が高所座り込みを行う1年前には、平壌市内の15のゴム工場の1800人の労働者が賃金削減に反対する同盟ストを行っている。
個別の労働組合の活動が目立つ現在とは異なり、日帝強占期における労働組合運動は業種レベルでの対応が珍しくなかった。実際には、使用者団体と本格的な産業別交渉は行われなかったが、労働組合の結成形態は地域別労組または産別労組などの企業単位を越えた労組に近かったという。解放後の米軍政時代、大韓労総(韓国労働組合総連盟(韓国労総)の前身)を抜いて全国の組合員の80%以上を占めた全国労働組合評議会は産別形態であり、1961年の軍事クーデターで権力を掌握した朴正煕(パク・チョンヒ)の時代も、韓国労総所属の労組はほとんどが産別労組だった。
こうした流れに最も大きな亀裂が生じたのは、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部が1979年の12・12軍事反乱に続き、1980年5月に光州を血で染め権力を奪った後だ。全斗煥政権の掌中にあった国家保衛非常対策委員会は、「労働組合浄化指針」を下し、韓国労総の産別労組の12人の委員長級上層幹部を解雇させ、105の地域支部を解散させるなど、産別労組の解体に乗り出した。民主労組運動を行っている幹部たちには現場復帰を指示した。同年12月には労働法改悪を強行した。事実上、その事業所の労働者でなければ労組を作ったり、争議行為に介入したりすることを原則的に禁止する「第三者介入禁止」条項を導入するなど、産別労組と労学連帯を無力化することを内容としていた。第三者介入禁止条項は、人権弁護士の盧武鉉(ノ・ムヒョン)だけでなく、チョン・テイル烈士の母親のイ・ソソンを拘束する道具として徹底的に利用された。韓国では、欧州では御用労組と呼ばれる企業別労組だけが許された。
強いられた企業別労組は、個別事業所の賃上げと労働条件の改善闘争のみに没頭し、労働現場で大企業と中小企業、元請けと下請けの労働の両極化が深化する契機となった。これこそ、産別交渉という制度的枠組みで賃金格差を縮めるとともに、労働者階級の連帯を成し遂げたスウェーデンやドイツなどの西欧社会の経験を、韓国社会が持てなくなった背景だ。現在、韓国社会が直面している最大の問題、不平等と不公正が生じたわけだ。
労組の活動家を拘束し、ブラックリストによって就業を妨害するなど、国家暴力が猛威を振るった全斗煥時代、労働者の団結権は絶えず萎縮し続けた。1979年には24.4%だった労組組織率は、1980年に21.0%に急落したのを皮切りに下落を続け、1986年には16.8%で底を打った。翌年の6月抗争に続く「労働者大闘争」が起きてようやく少しずつ回復を見せた。第三者介入禁止は2007年に労働法から消え去ったが、労働現場では依然として企業別交渉という慣行が主流となっており、交渉窓口の一本化制度などで、大多数の産別労組は「外見だけ」という評価を脱せずにいる。
5・18虐殺、三清教育隊、兄弟福祉園の被害者、解雇労働者やジャーナリストなどを残し、謝罪もなく全斗煥は世を去った。いまだに全斗煥が残した企業別労組、「御用労組」という枠組みにとらわれ、低賃金不安定労働におとしめられている非正規労働者問題を無視しているのは誰なのか、問うべき時に来ている。
チョン・ジョンフィ|社会エディター (お問い合わせ japan@hani.co.kr )