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「虐殺者」全斗煥、反省なく死す

登録:2021-11-24 07:40 修正:2021-11-24 09:49
23日午前、延禧洞の自宅で死去
8月9日、光州で開かれた控訴審裁判に出席するために延禧洞の自宅を出る全斗煥元大統領/聯合ニュース

 軍事反乱で政権を奪い、内乱を起こして市民を虐殺し、拷問と圧制で人権を蹂躙した独裁者の全斗煥(チョン・ドゥファン)が、23日に死去した。韓国現代史に癒えない傷を残したにもかかわらず、常に「堂々たる厚かましさ」を維持していた虐殺者は、同日午前、ソウル市延禧洞(ヨンヒドン)の自宅のトイレで倒れ、息を引き取った。国民はこの40年間、数知れず謝罪の機会を与えたが、嘘と言い訳を貫いた彼は死ぬ日まで一言の謝罪も、懺悔もなかった。

陸士11期、「ハナ会」結成し朴正煕親衛隊活動

 慶尚南道陜川郡栗谷面(ハプチョングン・ユルゴクミョン)で生まれた全斗煥は、大邱工業高校を卒業し、1951年に陸軍士官学校(陸士)に入学。1955年に同校を卒業し、陸軍第25歩兵師団で小隊長として初めて軍生活を始めた。1959年には米国特殊戦派遣教育将校に選ばれ、続いて第1空輸特殊戦団本部に配置された。「政治軍人」の面貌があらわれたのもこの頃からだ。陸士2期で朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の同期であるイ・ギュドンの娘、イ・スンジャと1959年に結婚。1961年、5・16クーデターの際にソウル大学の学生軍事教育団(学軍団・ROTC)の教官を務めた全斗煥は、陸士の後輩を説得して軍部革命支持の市街行進をさせ、このことで朴正煕大統領の信任を得て、国家再建最高会議の秘書官の座に就いた。その後、朴正煕大統領の最側近として浮上し、中央情報部人事課長、陸軍本部人事参謀部、第1空輸特殊戦団副団長などを務めた。1969年には陸士の同期の中で初めて大佐に進級し、1970年にベトナム戦争に参戦、1974年に陸士11期で初めて将軍となり、大統領警護室作戦次長補、第1歩兵師団師団長などの要職に就いた。1979年には国軍保安司令官の座に上り詰めた。全斗換氏が1963年に盧泰愚(ノ・テウ)ら陸士11期と組織した私組織「ハナ会(一心会)」は、彼が軍内で影響力を行使できる強い後ろ盾となった。ハナ会は朴正煕親衛勢力として役割を果たして影響力を拡大し、10・26事件で政局が混乱した隙に全斗煥が政権を握るのに決定的な役割を果たした。

12・12で政権奪取、5・18で流血鎮圧

 1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺されると、全斗煥は国軍保安司令官兼戒厳司令部合同捜査本部長の資格で捜査を担当した。そして12月12日、軍事反乱を起こし、当時戒厳司令官だったチョン・スンファを連行して軍を掌握した。1980年5月17日、全斗煥を中心とするハナ会の関係者らは、時局を収拾するという名目で非常戒厳を全国に拡大した。政党・政治活動を禁止して国会を閉鎖し、国家保衛非常対策委員会を設置した。学生・政治家・在野関係者ら2699人も拘禁した。全斗煥はこれに対抗した光州(クァンジュ)市民を銃剣で虐殺して鎮圧した。5・18民主有功者遺族会が2005年に集計した統計によると、5・18での死亡者は計606人と集計されたが、人知れず埋められ遺棄されたなどで依然として明らかになっていない死が多い。

 「新軍部」に押され崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領が退陣すると、全斗煥は同年8月に奨忠体育館で開かれた「統一主体国民会議」で第11代大統領に当選する。彼は就任後に政党を解散し、10月27日「7年単任大統領制」を含めた新憲法を公布した。1981年に民主正義党に入党し、新しい憲法によって間接選挙方式で第12代大統領に当選した。

1986年1月15日、ソウル可楽洞の中央政治研修院で党総裁の全斗煥大統領と盧泰愚代表委員など党役員、所属議員、党員、各界関係者1700人余りが参加した中で開かれた民主正義党創党5周年記念式で、全斗煥夫妻が党員たちの歓呼に拍手を送っている/聯合ニュース

 「全斗煥大統領」政権時代、韓国は低金利、原油安、ウォン安の状況で「檀君(ダンクン)以来最大の好況」を享受したが、民主化に向けた熱望はいっそう強まった。1985年の第12代総選挙を機に大統領直接選挙制への改憲要求が起こり、1987年1月、「朴鍾哲(パク・ジョンチョル)拷問致死」事件が明るみになって、民主化を求める声は野火のように広がった。それでも同年4月、全斗煥は「4・13護憲措置」を発表し、「体育館選挙」を維持するとねばった。これに反発する国民が全国各地でデモを行い、結局6月29日、次期大統領候補に指名された盧泰愚(ノ・テウ)民主正義党代表が直接選挙制の改憲を受け入れるに至った。

 全斗煥は盧泰愚を後継者に立て、退任後も民政党総裁として残り、水面下で権力を振るおうとした。しかし盧泰愚政権後、「少数与党」の国会で第5共和国の不正と5・18民主化運動真相調査のための声が沸き起こった。権力を受け継いだ友人であり陸士同期の盧泰愚も、彼と距離を置かざるを得なかった。1988年11月23日、全斗煥は「国民の皆様への言葉」を発表した後、妻イ・スンジャ氏と共に内雪嶽の百潭寺に入った。この程度で政治的責任を済まそうとした「自己幽閉」だった。

退任と拘束、全財産29万ウォン

 本格的な懲罰は、金泳三(キム・ヨンサム)政権発足後に始まった。民政党、統一民主党、新民主共和党の「三党合同」によって誕生した民主自由党候補として1992年の大統領選で当選した金泳三大統領は、任期中盤の1995年末に「歴史立て直し」の一環として特別法を制定し、全斗煥と盧泰愚を電撃的に拘束した。クーデターによる政権奪取(反乱首魁、反乱謀議参与、反乱重要任務従事、不法進退、指揮官戒厳地域守所離脱、上官殺害、上官殺害未遂、哨兵殺害、内乱首魁、内乱謀議参与、内乱重要任務従事、内乱目的殺人)と、大統領在職時の収賄(特定犯罪加重処罰などに関する法律違反)の容疑だった。

1996年8月26日、全斗煥被告(右から)が、盧泰愚やユ・ハクソン元中央情報部長とソウル地裁第417号大法廷で12・12および5・18事件の判決公判で起立している/聯合ニュース

 全斗煥はこれに反発し、延禧洞の自宅前で「(12・12と5・18)事件の真相究明に最善の努力を尽くしたが、政府が政治的な理由で特別法まで制定し再調査するというから、応じる理由はない。法を尊重するため司法の措置だけを受け入れる」という「路地声明」を発表した後、故郷に渡った。検察捜査チームは、慶尚南道陜川に出向いて彼を押送し、法廷に立たせた。

1995年12月2日、自宅前の路地で全斗煥が検察の召喚方針に真っ向から反論する2ページ分の対国民声明を発表する姿。全斗煥はその後故郷の陜川に渡ったが逮捕され拘束された/聯合ニュース

 全斗煥は、一審で反乱首魁と腐敗容疑で巨額の追徴金とともに死刑宣告を受け、二審で無期懲役に減刑された。検察は処罰が弱いとして上告したが、1997年4月、最高裁は全斗煥に無期懲役と追徴金2205億ウォン(約210億円)を言い渡した控訴審判決を確定した。1997年の第15代大統領選挙の遊説で、新政治国民会議の金大中(キム・デジュン)、ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)、国民新党の李仁済(イ・インジェ)候補らがいずれも「全斗煥赦免復権」を大統領選の公約に掲げ、大統領選から2日後の同年12月20日、金泳三大統領が赦免復権させたが、追徴金は全額納めなければならなかった。

 しかし、全斗煥は追徴金の完納を拒否し、全財産が29万1000ウォン(約2万8千円)だと抗弁し、公憤を買った。全斗煥は2003年4月28日、ソウル西部地裁で開かれた追徴金徴収のための財産明示関連裁判で、「企業から賄賂を受け取ったことは過ちだが、そのようにして受け取った金は民正党の管理など政治活動にすべて使ったため、残ったものはない」とし、該当する金額が書かれた預金と債券証書を提出した。全斗煥が提出した財産リストには珍島犬、ピアノ、絵、屏風、応接セット、カーペット、エアコン、テレビ、冷蔵庫、時計、陶磁器、パソコン、食卓セットなども書かれていた。彼は出所後も延禧洞で暮らしながら警護を受け、ゴルフをするなど豪華な生活をした。彼は死去したが、未納の追徴金は956億ウォン(約93億円)残された。

「死者名誉毀損」、断罪されずに去る

 晩年も物議は絶えなかった。2017年、全斗煥は3冊の回顧録を出版した。裁判所は5・18民主化運動に対する歪曲した内容が書かれた1冊の販売を禁止した。この回顧録で彼は「1980年5月に光州上空のヘリ射撃を目撃した」という故チョ・ビオ神父の証言がうそだとし「仮面をかぶったサタン」「聖職者という言葉が無意味な破廉恥な嘘つき」と非難した。チョ神父の遺族は全斗煥を死者名誉毀損の容疑で告訴し、全斗煥は2019年3月11日、警察警護チームの護衛を受け、被告人の身分で光州地方裁判所の法廷に立った。1999年に「光州で責任ある方々が中心となって招待すれば光州を訪問できない理由はない」と豪語した全斗煥は、光州で開かれた一審で「当時、ヘリコプターから射撃した事実はないと聞いている」と主張したが、裁判所は懲役8カ月に執行猶予2年を言い渡した。検察と全斗煥側はいずれも判決を不服としたため控訴審裁判が続き、全斗煥は今年8月、控訴審に出席したが、人的事項を確認する判事の言葉が理解できず、めまいがすると言って裁判開始約20分で退廷した。その直後、悪性血液がんである多発性骨髄腫と診断され、闘病生活を始めた。その後は公の場に姿を現すことができなかったが、「軍事クーデターと5・18を除けば、(全斗煥は)政治はうまくやったと言う人が多い」というユン・ソクヨル国民の力大統領候補の発言(10月19日)で、再び「存在感」を示した。

2019年11月7日、江原道洪川のあるゴルフ場で、全斗煥が正義党のイム・ハンソル副代表を眺めている=イム・ハンソル氏提供//ハンギョレ新聞社

 彼の死に、5・18民主有功者遺族会などは共同声明を出し「全斗煥が死んでも5・18の真実は消えない」とし「光州虐殺の主犯らに必ず責任を問い、万古の大逆罪である全斗煥の犯罪行為を明白に明らかにして歴史の正義を正す」と述べた。虐殺者は死をもってしても真実を葬ることはできないということだ。

キム・ミナ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/1020392.html韓国語原文入力:2021-11-23 20:34
訳C.M

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