本文に移動
全体  > 文化

被害者でも母親でもない“個人”の肖像「アイ・キャン・スピーク」俳優ナ・ムニ

登録:2017-09-23 21:55 修正:2017-09-25 08:36
29歳で同い年の俳優イ・テグンの母親役を初めて務めて以来 
“高齢者”“母親”専門俳優として大衆の脳裏に刻まれたが 
 
冷徹な経営者、強大な財閥、独立したい母親など 
平面的キャラクターの裏面に隠された個人の“欲望”を再解釈
映画<アイ・キャン・スピーク>の一場面。俳優ナ・ムニが扮した主人公“オクプン”は、単に気難しい人物ではなく、自身が願うことを正確に知り、それを恐れることなく実践する人だ=ロッテエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

※映画「アイ・キャン・スピーク」(2017)のスポイラーが多く含まれています。映画を事前の情報なしにそっくり鑑賞されたい方は、この文を読まないでください。

 本来、映画は何の事前情報も持たずに観に行くのが一番良い。しかし、すでに映画「アイ・キャン・スピーク」に関する情報はあまりに多く流れている。私たちの大多数は、ナ・ムニが演じる映画の主人公ナ・オクプン氏が頑固な性格の女性で、ちょっとした過ちでも放っておけない性格だということを知り、そのために区役所の公務員は言うに及ばず、近所の人まで彼女をかなり煩わしく思っているということを知っている。そして、何か言いたいことがあって英語を習うために全力を尽くすが、その“言いたい”ことが普通の内容ではなく、自身が経験した国家暴力と戦争犯罪に対する証言だという事実にも、マスコミの報道を通じて接している。事前に与えられた情報が存在するので、観客は概略的な絵を描いて劇場に入る。その人物が経験した悲劇的な歴史が彼女を頑固で馬鹿正直な老人にしたのだと思い、私たちが容易に想像できる種類のトラウマに苦しむ人物の姿が画面上に登場するのだろうと。

 しかし「アイ・キャン・スピーク」はそんな期待をものの見事に裏切ってくれる。オクプンはそれほど単純な人物ではなく、彼女を演じるナ・ムニもまた、そんな単純な人物として演じはしない。映画の中のオクプンは、常に周辺の人々の明確な予想をぶち壊す。ミョンジン区庁に勤める9級公務員のミンジェ(イ・ジェフン)は、英語を教えてほしいと言ってきかないオクプンをあきらめさせるために、老女が覚えるには難しい英単語を選んで宿題を渡すが、すでに数年間英語を勉強してきたオクプンは、与えられた宿題をやり遂げて試験で75点をとって見せる。商店街の再建築のために少しずつ店舗を傷つける建物オーナーは、老人が証拠をつかんだと言っても大したことはないと油断するが、オクプンは現場写真と任意に壊された建物の鉄筋という明白な物証を持って区庁に押しかける。

 オクプンは重要な決心をして、母親の墓を訪ねて愚痴をこぼす場面で、観客は彼女が母親の慰労を求めて訪ねて行ったのだろうと察する。しかし、オクプンは自身の経験した被害を慰めてほしくて行ったのではなく、ひたすら隠して生きろと言った母親を責め立てて「亡くなった母さんより私の方が大事だ」と墓場に宣言して帰ってくる。オクプンは単に気難しい人物ではなく、自身が願うことを正確に知り、それを恐れることなく実践する人であり、映画はそんな彼女を勝手に想像していた周辺の人や観客に彼女の本当の姿を誠実に見せることに注力する。

“老人”になった瞬間に消えるものたち

 オクプンに先入観を抱いて、それが見事にこ崩される経験は、実際のところ私たちが多くの高齢者に接する態度と大きく変わらない。シワや関節の老化、記憶力の減退など、高齢者が共通して経験するいくつかの身体的特徴は、個人から目に見える個性を奪い取る。そのせいで、世間は高齢者をそれなりの性格と歴史を持った独立した個人として眺める代わりに、容易に想像できる“高齢者”というカテゴリーの中に入れてしまい、それ以上の関心を持たない。オクプンが高いお金を払って入った英会話学院で、英語の先生は高齢の学生が負担になってオクプンには会話練習の指名を飛ばし、20数年間オクプンに応対してきたというミョンジン区庁の職員は「あのばあさんがそんなルールを守るわけがない」と思って、職員の誰も番号札を先に取ることを教えなかった。しかし、映画はオクプンがミンジェの渡した課題のために立ち寄った梨泰院(イテウォン)のビアホールで下手な英語でも外国人の友人と付き合って楽しい時間を過ごす姿を見せ、ミンジェが教えてからは番号札を先にとって受付する人物として描写する。私たち自身が勝手に解釈されてもいい単純な存在ではないように、高齢者もまた単純に良い人であったり、単純に悪い人であったりしない。

 高齢者に対する容易で勝手な先入観は、永きにわたって本当の年齢より年上の役を演じてきたナ・ムニにも及んでいる。29歳で同年齢の俳優イ・テグンの母親役を演じたほど、老人役をしばしば演じてきた俳優であったから、漠然と暖かく抱きしめてくれそうな“母親”のイメージが大衆の脳裏に刻印された。しかし、2007年に初の映画主演作だった「クォン・スンブン女史拉致事件」が封切りされた頃、「シネ21」とのインタビューで、ナ・ムニは、演技の中の姿のように暖かく細やかな姿を期待して自身を眺める人が多いようですが、という記者の問いに断固として答えた。「私は本当のところ、人々が期待するようなそんな人ではありません。私も人間なので、失敗もすれば、適当に黙認もするんです。人々は私が怒ったりしないだろうと言いますが、血の気が多くよく怒ったりもします。特に私が焦っていて気が短かくなっている時には腹も立てます。私にそんな良いことばかりを期待してほしくはありません。私は本当にまぎれもなく人間なんです」(「シネ21」『ナ・ムニ、私は本当にまぎれもなく人間なんです』2007年9月3日、カン・ビョンジン記者) 。10年前のインタビューを改めて紹介したのは、ナ・ムニが「良い人ではない」という話をするためではない。そしてまた、私たちの大部分がそうであるように、すべての瞬間にひたすら良いだけの“母親”ではなく、自身の好悪と判断が鮮明に存在する“個人”だという話だ。

 私たちはナ・ムニについて語るとき、しばしば“母親”という修飾語の中に閉じ込められる。俳優が広げておいた多彩なフィルモグラフィーの中に共通点を探して、一つの脈絡を作ることほど俳優を説明する易しい方法はないためだ。過去のナ・ムニのフィルモグラフィーに対して、浅薄な文を残した私もまたそうだったように、彼女が画面の中で絶えず誰かの食事を用意する行為で、相手の痛みをつましく抱いてくれる人物に扮する姿を観た人ならば、“母親”という修飾語を選びたい気持ちを押さえることは難しい。

 しかし、ナ・ムニが演じた母親たちは、私たちがよく考える“母親”のステレオタイプだけに閉じ込められていない。「クォン・スンブン女史拉致事件」の中で、クッパ財閥のクォン・スンブンは「高齢者だから弱いだろう」という偏見をひっくり返し、拉致犯にげんこつを食らわせ、身代金を払うことを躊躇する子供たちに対する裏切られた思いから自分の身代金を500億ウォンに引き上げるという豪傑であったし、ドラマ「私の名前はキム・サムスン」(2005)の中のナ社長もまた、ジンヒョン(ヒョンビン扮)の母親であると同時に、5つ星級一流ホテルを経営する冷徹な経営者だった。ヒールを履いて腰を伸ばしたナ社長は、私たちがよく考える“母親”という単語の印象をものの見事にぶち壊したキャラクターであった。ドラマ「ディア・マイ・フレンズ」(2016)の中のジョンアはどうか?彼に従順に従う妻と、忙しい自分たちを助ける母親を期待した家族構成員の期待に応え日々を暮らしたチョンアは、ある瞬間に自分にも“妻”と“母親”という役割以前に成し遂げたかった欲望があったことを宣言し、別に家を用意して暮らし始める。したがって、ナ・ムニが演じてきたのは母親ではなく、家庭で母親という役割を遂行する個人だったことになる。

ありのままにその人を眺めよう

 再び「アイ・キャン・スピーク」に戻ろう。映画はミンジェとオクプンが単純に英語を教えて習う子弟の関係ではなく、擬似家族になる地点にまで進むが、二人を中途半端に母親と息子、おばあさんと孫のような構図で縛りはしない。オクプンは国家暴力と戦争犯罪の被害者として描写されるが、それはオクプンを構成する多くのアイデンティティの中の一つに過ぎず、決してオクプンという人物をすべて説明できる万能の鍵ではない。 映画は母親を、老人を、被害者を眺める私たちのありがちな固定観念を裏切って、慎重に目の前の人をありのままに眺めることを要求する。この卓越した映画の完成には、しっかりとナ・ムニを支えたイ・ジェフンと、前作「スカウト」(2007)で歴史を扱う態度を証明したことのあるキム・ヒョンソク監督の功労が大きいが、常にありがちな固定観念を裏切って“母親”、“高齢者”という単語の裏に隠れていた個人を繊細に描写してきたナ・ムニがいなかったならば、映画がこのように完成されることはなかったはずだ。そして、このような卓越した成就ならば、やはり大きなスクリーンで確認することをお勧めする。

https://www.hani.co.kr/arti/culture/movie/812211.html 韓国語原文入力:2017-09-23 14:55
訳J.S(3892字)

関連記事