登録 : 2017.05.02 00:04 修正 : 2017.05.02 06:55

井上直樹京都府立大学教授 
1939年の「満州歴史調査部」に基づき 
「満州・朝鮮統合経営試みたが 
寺内正毅の京城設置案に押された」

「平壌高麗総督府」設置案を推進した初代満鉄総裁の後藤新平=資料写真//ハンギョレ新聞社
 1910年の韓日併合当時、日帝が平壌(ピョンヤン)に「高麗総督府」という名前の統治拠点を設置する方案を政府次元で議論していた事実が明らかになった。

 これは京都府立大の井上直樹教授が先月28日、啓明大学人文学研究所の学術大会で行った「高句麗と満鮮史」という基調講演を通じて公開された。彼はこの日の講演で、高麗総督府議論の秘話が書かれた日帝強制占領期間の本『後藤新平伯爵と満州歴史調査部』(1939年刊 満鉄鉄道総局広報課編)を韓国に初めて紹介した。井上教授はこの本の中に、露日戦争直後の1906年に日本が作った南満洲鉄道会社(満鉄)の初代総裁である後藤新平(1857~1929)と1908~1915年に運営された満鉄傘下の歴史調査部の学者、満州駐留日本軍の将軍が平壌に高麗総督府の設置を推進した内容が出てくると明らかにした。

 講演内容によれば、この本で平壌に朝鮮統治の拠点である高麗総督府新設案を立案した主役は後藤新平満鉄総裁だ。満鉄は1945年に崩壊するまで満州と朝鮮侵奪政策の尖兵となった国策会社で、日本の政財界で莫大な影響力を振るった権力集団だ。日本政界の大物だった後藤は、当時日本の閣僚会議に高麗総督府の設置を建議して「満州と朝鮮は統合的に経営してこそ安定的に維持できる。最も相応しい朝鮮統治の拠点は南側に偏った京城ではなく平壌に置くべきで、総督府の名称も既に崩れ落ちた朝鮮を付けずに朝鮮民衆が好み、世界に“コリア”として知られた高麗という言葉を使うべきだ」という名分を立てた。彼のみならず、露日戦争当時に満州駐留日本軍の総参謀長だった児玉源太郎も、同様の見解を初代朝鮮総督であり後に日本の首相になる寺内正毅に手紙で送ったと証言した。

 平壌高麗総督府設置論は、当時満鉄歴史調査部で活動した白鳥庫吉、稲葉岩吉のような植民史学者が満鮮史(満州朝鮮史)の脈絡で、遼東と朝鮮半島を支配した唯一の国家であった高句麗の歴史モデルを参考にすべきと主張したことに伴うものだと指摘した。朝鮮と満州は一つという“満鮮史観”が政治的背景として作動したという分析だ。しかし、寺内正毅が京城設置案を押し進めて挫折したというのが井上教授の説明だ。後藤と児玉の論文を調べた慶北大学のイ・サンフン研究教授(戦争史)は「高麗総督府設置を日本政府が議論したという事実は韓国の学界では知られていなかった。日帝強制占領の草創期から満鮮史観が朝鮮統治戦略の背景として台頭していたという点を示すもので注目される」と話した。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-05-01 18:14
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/793049.html 訳J.S(1311字)

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