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日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(1)

登録:2015-10-24 02:15 修正:2015-10-24 15:32

朴槿恵(パク・クネ)政権が推進する韓国史教科書国定化方針に対して、日本の市民社会が憂慮している。彼らの反対理由を知るため、日本が1903年から施行した小学校教科書国定化の流れと、その結果作られた教科書の内容を調べてみた。そこで発見できたのは、教科書を通じて国民の精神を支配して、無謀な侵略戦争に若者たちを駆り立てた日本政府の悪しき本音だった。すべての悲劇は一件の偶然な紛失事故から始まった。

当時の軍国美談は現実を巧妙に歪曲したりねつ造したものが多かった。第1次上海事変の時に爆弾を担いで敵の鉄条網陣地に向かって肉弾攻撃を行ったと伝えられる肉弾三勇士の美談が代表的だ。日本の兵庫県のある神社に残っている肉弾三勇士関連絵画=資料写真//ハンギョレ新聞社

 日本が朝鮮の支配権などを巡ってロシアと一大決戦を行うべしという世論が高まった1902年11月のある日のことだった。 東京の品川駅周辺を歩いていた一人の住民が、田畑に落ちている革カバンを発見し警察に申告した。 カバンの中には手帳一冊と当時の教科書の大手出版社だった普及社の社長、山田禎三郎(1871~1930)の名刺が入っていた。 警察にはすでに山田氏からカバンをなくしたという紛失届けが出されていたので、カバンは間違いなく山田氏のものだった。

 カバンを受け取った担当警察官は好奇心から手帳を開いて内容を覗き見た。 その中には韓国の広域自治体長に相当する日本の各県知事、視学官(奨学官)、その他教育関係者の名前とその横には金額のような小さな数字がびっしり記されていた。 それを見て何か尋常でないと感じた担当者は警視庁に連絡し、警視庁は東京地裁検事局にその事実を通知した。1カ月程度の内偵の末に検察はその年の12月17日、今回の事件を教科書出版社が教科書採択権限を持つ教育関係者らに大規模なわいろを上納したものと規定し、事件を公開捜査に切り替えた。 以後、日本の政官界を揺るがす大型贈賄スキャンダル「教科書疑獄事件」の始まりだった。

■修身・歴史・国語から国定化

 この事件を契機に日本政府は1887年5月、「教科用図書検定規則」制定以来16年間にわたり維持してきた小学校教科書の検定制度を撤廃し、本格的な国定化を進めることになる。 その名分はもちろん「国民の精神を統制するため」ではなく、「教科書採択を巡る業界の不正を一掃する」だった。

 今月12日、韓国政府が2017年度から中学・高校で使われることになる韓国史教科書を、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新時期に導入された国定制に回帰すると明らかにした後、それを憂慮する日本の市民社会の強い反発が相次いでいる。「子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会」など24の教科書・歴史関連市民団体は16日、声明で「かつて日本は日露戦争直前の1903年から敗戦の1945年までの42年間の長きにわたって国定教科書を使用し、その結果、多くの日本人が侵略戦争を『聖戦』と信じこみ、アジアの人々を殺戮した」と指摘した。 日本の朝日新聞も19日付社説で「民主化して30年近くたつ韓国は、多様な価値観が存在する先進国である。いまになってなぜ、歴史教科書のみを国定化せねばならないのか理解に苦しむ」と朴槿恵(パク・クネ)政権を遠回しに非難した。

 日本の市民社会はなぜ韓国の教科書制度に強い関心と憂慮を明らかにしているのだろうか。 その背景には日本人が過去の軍国主義時期に体験した辛い経験がある。

 日本のNHK放送が1982年5月に放映したドキュメンタリー「明治教科書疑獄事件 ~国定化への道~」によれば、日本政府が教科書疑獄事件を活用して教科書の国定化を周到綿密に貫徹していく過程が描写されている。

 検察が事件を公開捜査に切り替えて1カ月にもならない1903年1月9日、教科書国定化案が閣議に提出され、続いて3カ月後の4月13日には小学校令が改定され、修身・日本史・地理・国語の4科目国定化が立法化された。 まさに電光石火のような動きだった。 当時、日本の国会で政府のこのような動きに反対したのは根本正議員(1851~1933)だけだったと伝わる。

 当時、日本の教科書国定化を指揮したのは、明治の軍人、児玉源太郎(1852~1906)だった。児玉は事件発生の直前である1902年9月18日、桂太郎首相(1848~1913、朝鮮強制併合当時の首相)に教科書界に蔓延したわいろ不正の摘発を急ぐよう手紙を送った。 わいろ事件の摘発を契機に国定化方針が確定すると、彼は1903年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、教科書国定化を本格的に指揮していく。 こうして見ると、日本の教科書国定化と戦争遂行のための「忠良な皇国臣民養成」はコインの両面だった。

 以後、日本の教科書は国民精神改造の道具に変わって行く。日本が最初に国定化を推進した科目が、人間の思想に関連する修身・歴史・国語科目だったという事実がこれを象徴的に示している。

 それとともに既存の検定制教科書の内容が大幅に修正され始める。 滋賀大学附属図書館が2006年11月に出した『近代日本の教科書のあゆみ-明治期から現在まで』によれば、「これまで多くの検定教科書が神代(日本の歴史で神話の時代に該当する時期)を省略してきたが、国定教科書では神代から始める歴史教育を復活させた」と指摘している。 これは日本の子供たちが自国の歴史を石器時代という“考古学的事実”ではなく「(日本の創造神である)天照大神は天皇陛下の先祖」という“主観的神話”から習い始めたことを意味するわけだ。 戦争末期に使われた『初等科国史』下巻は、日本が起こした満州事変と大東亜戦争を「東洋平和を確立するためのもの」と正当化し、「私たちは一生けんめいに勉強して…立派な臣民となり、天皇陛下の御ためにおつくし申しあげなければなりません」で終わっている。このような天皇中心の歴史観は、靖国思想などと結びついて「日本は神国なので絶対に戦争に負けない」 「天皇のために死んで靖国で会おう」という盲目的な国家観につながっていった。 当時の日本政府の宣伝戦がどれほど乱暴だったかは、朝鮮総督府が発行した機関紙である毎日新報の紙面をいくつか見るだけで容易に感じをつかむことができる。

(2)に続く。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/714283.html 韓国語原文入力:2015-10-23 20:31
訳J.S(2651字)