80余年前、日帝強制占領期間に根こそぎ持って行かれたこの地の石造文化財は、まるでデパートの商品のように扱われた。朝鮮官吏の墓や寺の跡地からそっくり盗掘された石造物と石塔が日本の収集家の便宜のために現地古美術業者の販売目録に多数写真や名称と共に載せられた惨い姿が初めて確認された。
日帝強制占領期間の文化遺産搬出史を研究してきたチュ・ホンギュ中源大学講師(47)は最近、国民大学人文学研究所の学術誌『人文学論叢』に論文を載せ、20世紀初期にアジア最大の古美術業者だった日本の山中商会が朝鮮の石物と陶磁器を搬出し販売した図録写真と関連記録を示した。「山中商会と日本に流出した韓国文化財」というタイトルのこの論文は、山中商会による長明燈・望柱石などの墓石物や石塔、陶磁器などの遺物の搬出販売資料や経緯を分析している。これに先立ち、20世紀初めに山中商会を通じて米国コレクターに流れた韓国文化財は、2012年、米国スミソニアン研究所で発行した「フリーア・サックラーギャラリー(ワシントン所在)の韓国美術」図録を通じて一部知られている。 しかし、最も多くの韓国文化財が流出した日本現地での販売競争の図録や資料の細部を公開して本格的に分析した試みはこの論文が初めてだ。
山中商会展覧会図録を入手
王陵から持ち出した望柱石、長明燈
石塔・白磁粉青沙器まで多数
欧州、米国などで遺物を販売し
現在の所蔵位置などはほとんど確認できず
「搬出品還収のための根拠資料になるだろう」
19世紀末に創業した山中商会は、20世紀初期にはアジアの古美術品流通に関して世界的な知名度を誇った貿易商だ。大阪の古美術商である山中定次郎が1894年に米国ニューヨークを皮切りにロンドン、パリ、北京に店舗を構え、中国や朝鮮の文化財を米国、欧州、日本の収集家に売る国際ブローカーの役割を果した。特に1923~36年には数十回にかけて大展覧会を開催し、数え切れないほど多くの朝鮮文化財を西欧や日本に搬出した元凶として名指しされてきた。
最も注目されるのは、現在はどこにあるか分からない石造物や陶磁器など貴重な搬出文化財100点余りの図録写真を発見したという点だ。チュ博士は山中商会が1930年から38年まで日本の東京や大阪で開いた各種販売展覧会の図録を入手し、写真目録と作品目録などを分析した。1930年世界民衆古芸術品展覧会、1934年支那朝鮮古美術展観、1938年世界古美術即売会大展観のポスターと展示図録を見ることができる。図録の写真を見れば王陵または官吏の墓からこっそりと掘り出した望柱石や長明燈、古刹から盗掘した多様な種類の石塔、白磁粉青沙器の名品などがおびただしい。不法に搬出された朝鮮遺物は、日本、欧州、米国などに高値で売られたが、当初の搬出経緯や販売経緯、現在の所蔵経緯などはほとんど確認されていない。この図録らと販売関連記録は、搬出品還収のための重要な根拠資料になるというのがチュ博士の説明だ。
山中商会は関野貞、梅原末治、濱田耕作など草創期の韓国考古発掘史を切り拓いた日本の官学者などの協力で莫大な量の朝鮮石造物と陶磁器を搬出したと推定されるが、1945年の日帝崩壊後に多数の海外資産を没収され解体された。山中商会は1936年、澗松(カンソン)美術館の最高名品の一つになった「青華白瓷鐵砂辰砂菊花文瓶」(国宝)を入手するために澗松と激しい競売合戦を行い、恵園 申潤福(へウォン シン・ユンボク)の有名な風俗画帳もまた大阪で澗松に販売したことで有名だ。
最近では2014年に国外所在文化財財団が米国のHermitage博物館から還収してきた仏画釈迦三尊図が山中商会が搬出した作品であることが確認されもした。チュ博士は「論文で明らかにした搬出品の情報、イメージと日本に散在する多くの私設美術館などの石造物コレクションを比較し、還収作業を本格化する必要がある」と話した。