人類史において権力者が構築した巨大建築物は二重の顔を持っている。統治者と支配階層が投影した思想、理念の記念碑的産物でありながらも、その裏面には連れて行かれ賦役した民衆の苦痛の痕跡が残っているはずだ。
韓国の伝統建築の真髄といわれる朝鮮宮廷建築も例外ではない。景福宮(キョンボックン)を創建した初代太祖(テジョ)から徳寿宮(トクスグン)を近代ソウルの中心に構想した26代高宗(コジョン)に至るまで、朝鮮の王はほとんどが「建築君主」だった。宮廷の新築と改善補修を、儒教理念を実体に表わす統治行為として重視したために、景福宮、昌徳宮(チャンドックン)、昌慶宮(チャンギョングン)、徳寿宮、慶煕宮(キョンヒグン)を建てては、常に拡張を続け、首都ソウルを屈指の宮廷都市に作り上げた。
だが、君主たちは宮廷の工事の度に庶民を動員し、労役と資材の供出を強要した。それだけでなく無理な宮廷建築事業は政権の危機と没落をも招いた。慶煕宮の建設を強行し、仁祖反正の口実を与えた光海君(クァンヘグン)や、景福宮再建のために貨幣を乱発して没落を自招した興宣(フンソン)大院君がそうである。
ソウル景福宮内にある国立古宮博物館で開かれている特別展「営建、朝鮮宮廷を建てる」は、世界に類例のない自然地勢に合わせて独特の空間的権威を構築した朝鮮宮廷建築が、どのように進められたかを具体的に見せる。景福宮の殿閣柱上の升形部材である牛の舌形の雲肘木模型で入り口を飾った展示場は、1部と2部に分けられて、昌徳宮、徳寿宮などの殿閣を作る過程の記録文献と工事用道具、丹青部材、壁紙、宮廷図など180点あまりの遺物が展示されている。
展示のタイトルである営建とは、国家運営の核心である宮廷を建てる過程を言う言葉だ。1部ではこの営建の主要過程と関連遺物を扱う。まず観客は朝鮮の宮廷建築に設計から細部の工程まで徹底した記録が作られていたという事実を知ることになる。宇宙の根源である三才と周辺の八卦を反映して景福宮再建の時に慶会楼(キョンフェル)の建築を構想したことを示す『慶会楼全図』(1866)と1833年昌徳宮殿閣の再建過程を記録した『昌徳宮営建都監儀軌』、1904~07年徳寿宮営建工事の職人作業日誌を整理した『匠役記綴』などがこれを語る。数十年前に作られた官公庁建築物の細部記録も容易に探せない後代人の不明を恥ずかしくさせる遺物だ。
一般人にとっては独特な工事用具や殿閣を飾った枡形や壁紙のような現場遺物に一層の注目が向かうだろう。二人で棒を掴んで地面を締め固める木達古(木杵)のような工具をはじめ、多様な使途がある伝統カンナ、無骨だが繋ぐ目的に忠実な太い鉄釘、定規などが昔の職人の痕跡を見せる。雲ヒョン宮(ウニョングン)、昌徳宮、徳寿宮の各防壁に貼られていた壁紙は、龍、鳳凰、蝙蝠紋などがあしらわれた曲線模様と幾何学的配置が調和して過去の宮廷建築の品格を実感させる遺物だ。
展示は宮廷工事の過程を一堂に集めて初めて公開したもので、朝鮮宮廷の特長を目で見て理解できるように展示したが、空間配置は盲点を露呈した。1部企画展示室と、勤政殿縮小模型や上棟文などを展示した2部朝鮮宮廷室が離れているため、2部は見逃しやすい。過去の工程などを再現した大型映像や立体模型なども殆どなく、ショーケース内の文献、遺物に目を通すことにだけ重点を置かなければならない。この博物館の企画展示室は、狭い空間のせいでたびたび分散したり動線が複雑という指摘を受けてきた。企画展示室のリモデリングの検討が必要な時点だ。展示は19日まで。