百済の古都である忠清南道扶余(プヨ)の陵山里(ヌンサンリ)古墳群(史跡14号)西側の丘から日帝強制占領期間(日本の植民地時代)の記録のみが残っていた百済時代の王陵級古墳の実体が大量に出土した。
文化財庁と扶余郡は、韓国伝統文化大考古学研究所の調査チームが扶余邑陵山里山36-14番地一帯の西古墳群を試掘および発掘調査した結果、日帝強制占領期間の記録にのみ残っていた百済後期の王陵級古墳4基の実体を確認し、存在が知られていなかった古墳3基も新たに追加発掘したと20日発表した。陵山里古墳群は、日帝強制占領期間に日本の学者によって3回にわたり発掘調査が行われたが、解放後に韓国国内の学者が学術発掘調査を行ったのは今回が事実上初めてだ。
確認された4基の王陵級古墳は、学界で陵山里西古墳群7号墳、8号墳、9号墳、10号墳と呼ばれていた墓だ。これまで正確な墓の位置が把握されていなかったが、試掘調査を通じて各墓に王陵級の封墳囲郭を保護するための護石列の輪郭があらわれ、明確な位置が分かった。この墓は日帝強制占領期間に略式調査されたことが分かっている。1917年日本の学者による発掘調査結果報告書「大正6年度古蹟調査報告・1920)」によれば、陵山里王陵群の西側に王陵に次ぐ古墳4基があるという記録が伝えられている。しかし当時、封墳内を掘りまともな掘削調査が行われたのは、石室平面図が残っている9号墳と人骨と木棺片が出てきた10号墳だけで、この2基を含む西古墳群の墓の正確な位置や分布状況は把握されていなかった。
調査内容によれば、最も注目される成果は調査団が本格的な発掘調査を行った8号墳と10号墳だ。二つの古墳は直径が15~20メートル程度の横穴式石室墳構造だ。今回の発掘で石室の外部の姿と入口を閉ざした衍門、羨道の仕組みと封墳内部の積まれた断面が鮮明に出土した。
内部の遺物は盗掘と日帝強制占領期間の発掘によってほとんど消えたと見られる。だが、二つの墓の羨道(古墳入口から遺体を安置した墓室に達する道)を塞いだ石の門(衍門)の外側の床には漆と共に金でメッキされた木棺破片と金銅製の釘などの遺物が少量発見された。特に木棺に使われた木が、高級木材のコウヤマキと確認された点が目を引く。コウヤマキで木棺を作った事例は公州の武寧王陵などの百済王陵でたびたび見られる。今回調査された古墳2基が百済王陵級の古墳であると判断する主な根拠になったとのことが調査団側の説明だ。
もう一つ特記すべきことは、二つの墓から封墳の形と護石、墓壙、石室など造成当時の原型が最も完全に出土したという事実だ。調査団長のソ・ヒョンスク韓国伝統文化大教授は「遺物は少ないものの、6~7世紀の百済時代王陵級古墳の規模と築造・造成技法を断面を通じて具体的に見せる唯一の遺跡なので考古歴史的な価値は非常に大きい」と評価した。
百済後期の王家の専用墓地と推定されてきた陵山里古墳群は、日帝強制占領期間に3回(1915年、1917年、1937年)調査が行われ、古墳15基が確認された。その後60年代に封墳を整備して古墳2基が追加で出土し、現在までに計17基の古墳の存在が把握されていた。今回の調査を通じて新たに古墳3基が追加で確認され、位置が不明確だった王陵級古墳の実体まで把握され、陵山里古墳群の領域や性格について学界で活発な議論が起きるものと見られる。陵山里古墳群は昨年7月、百済歴史遺跡区としてユネスコ世界文化遺産に登載された。