今年3~6月、国立博物館が再発掘調査を行った金冠塚で「爾斯智王刀」という漢字銘文が彫られた鞘が出土した。国立中央博物館と国立慶州博物館は6月に行った最終段階調査で、爾斯智王刀と十という文字が彫られた鞘の先端部分の装飾を発見したと30日明らかにした。爾斯智王という銘文が金冠塚内で確認されたのはこれで二回目だ。 2013年に国立中央博物館は、日帝強制占領期間である1921年に金冠塚を日本人たちが発掘調査した当時に収拾した遺物である環頭大刀(丸い輪を備えた鉄製刃物)を保存処理して、爾斯智王の銘文を初めて確認し学界の関心を集めた。 今回出土した刃物からも爾斯智王の銘文が再び現れたことにより、爾斯智王が墓の主人であるという定説がさらに説得力を得ることになり、墓の主人の実体を巡る論議も熱くなるものと見られる。
爾斯智王は『三国史記』『三国遺事』などの史書や新羅当時の碑石には見られない人名だ。 しかし、学界は概して新羅中央政府の王というよりは、地方の有力者か貴族級の人名と見る見解が多い。 冷水里碑(ネンスリビ)や中城里碑のような古新羅の碑石の銘文を判読すると、4~6世紀の古新羅人は、地方有力者や貴族級に対しても王と呼んだとみられ、金冠塚の規模が大型王陵級ではない中型級古墳という点がこのような推定の根拠となる。博物館側は「本来、爾斯智王銘文に“刀”字が追加であらわれ、金冠塚出土刃物の主人が爾斯智王だという点は明らかになったが、墓の主人であると断定はできない」と説明した。
博物館の最終資料によれば、今回の調査では鞘の他にも金製細環耳飾2点が新羅古墳としては初めて発見され、金製太輪耳飾、瑠璃玉など数百点の副葬品が新たに収拾された。 また別の成果は、墓に残った石積みの仕組みと木質痕跡を通じて棺周辺を取りまいていた木槨の位置と、これを組み込む方式を把握した点だ。 調査団は再発掘であらわれた墓の中の石積み構造を分析した結果、棺と副葬品を囲んだ木槨を奇抜な方式で組み入れた事実を知った。 石積みに大型の木柱を立て、横9メートル、縦8メートルに空間を分け、このような構造物の中に横7.2メートル、縦6.2メートル、深さ40センチの浅い穴を掘り、川石と砂利を敷き詰めた構造の上に木槨を作った事実が明らかになった。 博物館側は「木槨の周囲に木柱を立てたのは、天馬塚(チョンマチョン)や黄南大塚のような他の新羅古墳では見られない特異な構造」として「このように積んだ背景を明らかにすることが今後の重要な研究課題になると見られる」と説明した。 また、日帝強制占領期間に出てきた報告書には、木槨内に木の板があったと書かれていたが、再発掘の結果、実際には報告書の記述とは違い幅2.4メートルの内木槨と幅4.2メートルの外木槨による二重構造だった事実も新たに明らかになった。
金冠塚は5世紀末~6世紀初めの積石木槨墓で、新羅黄金文化の序幕を開いた遺跡として評価される。 1921年9月、慶州鳳凰台近隣の民家を修理したところ玉などが偶然発見されて、日本の学者による収拾調査が始まり金冠、腰帯、金属装身具などを発見し新羅を代表する遺跡として世の中に知らされることになった。 しかし金冠塚は、最初の調査が収拾中心の不良発掘であり、全貌を明らかにした報告書も出されないなど資料整理が不十分だという指摘を受けてきた。 結局、発掘94年をむかえる今年3月から国立中央博物館が再発掘に乗り出し、これまで分からなかった古新羅古墳の構造の実体を相当部分明らかにする成果を上げた。