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新羅の皇南大塚、夫婦の墓ではなく父子の墓だった?

登録:2015-05-12 22:28 修正:2015-05-13 18:11
イ・ジュホン全州博物館学芸室長
学会誌で破格の主張を展開
韓国考古学における最大の発掘に上げられる皇南大塚。皇南洞の入り口に聳える巨大な双墓(双墳)=慶州文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島最大の古墳である慶州(キョンジュ)皇南大塚(ファンナムデチョン)が新羅の王と王妃が埋められた墓ではなく、先代の大王と次の大王が並んで埋められ権力を誇示した大型記念物だという主張がされた。 考古学者のイ・ジュホン国立全州博物館学芸室長は、半年刊の学術誌『新羅文化』45号に最近発表した「慶州皇南大塚北墳の主人公の性格再考」という論文で、夫婦墓という既存の学界定説を覆した。南墳と北墳がヒョウタン形に並んでいるこの巨大な双墓(双墳)を王と王妃の墓と見るだけの論理的根拠はなく、4~5世紀に訥祗王(ヌルジワン)、慈悲王(チャビワン)。ソ知王(ソチワン、ソ=火偏に召)へと王統が世襲されたことを誇示する先代の王と世襲した王たちの記念碑的墓だという分析を出した。

「北墳は王妃墓」の根拠となった
銀製ベルトの「夫人帯」という銘文
儀式用途の副葬品と主張
耳飾りも実際には装着した痕跡がない

双墓形式は権力誇示が目的と推定
南墳は父の訥祗王、北墳は息子の慈悲王と主張

 イ学芸室長の主張の骨格は、学界がこれまで北墳が女性の墓だと見てきた根拠が論理的に正しくないということだ。代表的なものが北墳から出た「夫人帯」という銀製のベルトの端に彫られた装飾銘文と太環耳飾と呼ばれる出土品の耳飾りだ。また、男性支配者の墓からよく出てくる大刀が出て来ず、糸を紡ぐ際に使われた紡錘車輪が出てきたことも女性の墓と見る根拠になった。 金冠と大刀が出てきて王の墓と推定されや南墳からはこれらの遺物は全く出てこなかった。「夫人帯」の銘文自体が注文者の性別を区分するために刻んだものであるので、北墳は王妃または王族の夫人の墓だという見解が通説だった。

 しかしイ学芸室長は1985年と1994年に文化財管理局から出た南墳・北墳の発掘報告書を分析した結果、「夫人帯」という装飾銘文は埋められた人が着用せずに棺の外部、または副葬品収蔵部に儀式用途で入れた副葬品と推定されるので、墓の主人公の性別を決める決定的根拠にはならないと指摘した。埋められた人の頭側の副葬品収蔵部から6点の環頭大刀が発見されているので大刀が出土しなかったということも根拠にはし難いと主張した。 男性支配者の墓である慶山(キョンサン)市・林堂(イムダン)洞の古墳のように、刀を遺体の枕元に置いた別の事例が報告されたことも、これの反証になるとした。 また出土した太環耳飾も、実際に墓の主人公が装着した痕跡が見られないため、殉葬された別の女性が使ったり儀式用の祭具だろうという推定だ。 また紡錘車輪については、古代日本と韓国内の別の古墳の発掘成果と比較してみれば、実際の紡錘道具としての機能よりは埋葬儀礼の器物として使われたケースが珍しくないということも、イ学芸室長は論拠として提示した。 出土人骨に対する体質人類学的分析に基づかず、着装遺物の存在有無を根拠に判別する研究法は合理的根拠とは言えないということが論文の結論だ。

 イ学芸室長はさらに進んで、瓢箪形の皇南大塚の双墓形式が、奈勿王(ネムルワン、在位356~402)の息子で、昔脱解(ソクタルヘ)王家系列の實聖王(在位402~417)を殺して政権を奪った訥祗王(在位417~458)の嫡統を後代の王が誇示するために建造した記念物の性格という主張も展開した。 4世紀末から6世紀初めまで、訥祗王から慈悲王(在位458~479)、ソ知王(在位479~500)へと続いた金氏王系世襲体制が確立され、系譜関係を明示するために巨大な陵が連続する瓢箪形墳墓を積んだということだ。このような脈絡で見れば、先に作られた南墳は慈悲王が積んだ父の訥祗王のものとなり、北墳はソ知王が積んだ慈悲王の陵になる。

 これに対してチェ・ビョンヒョン崇実(スンシル)大名誉教授など学界の重鎮学者は、新羅の大型瓢箪形墳墓に対する既存研究の脈絡を無視し、細部遺物の年代も曲解したとして強く反発している。数十年間にわたり種々の説が交錯してきた皇南大塚の主人公の実体を巡る議論が熱くなるものと見られる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/690832.html 韓国語原文入力:2015-05-12 17:12
訳J.S(1946字)

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