どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール
鍬を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
現代日本の女性詩人、茨木のり子の「6月」。私がこの詩を初めて目にしたのは中学校2年の時、今から半世紀以上前のことである。中学生の私は、この詩に描かれた「ユートピア」(それも労働する男女のユートピア)のイメージに魅了された。「食べられる実をつけた街路樹」に飾られる街とは、まさしく植民地支配から解放された朝鮮民衆が見た夢でもあっただろう。
それから10年ほど後、母国留学中に軍事政権によって投獄された兄(徐俊植)に『茨木のり子詩集』を差し入れたところ、兄はこの詩に特別な愛着を感じたようで、自らこの詩を翻訳して、獄中から手紙に書いてよこした。軍事独裁がもっとも険悪だった時代に、この「ユートピア」のイメージが韓国獄中の若者に伝わったのである。そのことを、当時一面識もなかった詩人に伝えると、わざわざ私が住む京都まで訪ねて来て下さった。初めて会ったその人は、颯爽としていた。
茨木のり子は1926年生まれである。最初期の作品に「わたしが一番きれいだったとき」がある。自分が一番きれいだったとき戦争で人々が死んでいった、街は破壊され瓦礫で覆われた、自分はおしゃれのきっかけを失った、と歌う。しかし、被害者意識にまみれた嘆き節ではない。封建制と軍国主義のくびきから解放され、自立しようとする女性の輝き、どこか「廃墟にさす光」ともいえる明るさを湛えている。
その後、世の中は移ろい、多くの同僚詩人たち(それも男たち)が無気力な現状肯定に転じていった中でも、彼女は生涯一貫してこの輝きを失わなかった。1975年10月31日、昭和天皇が記者会見で、みずからの「戦争責任」について質問され、そのような「〝言葉のあや〟については、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と述べた。帝国の絶対権力者であり、戦争の最高司令官であった天皇が、他国と自国の無数の民を死に追いやった戦争の責任について「言葉のあや」という表現でごまかしたのである。しかも、もっと驚いたことに、ほとんどすべての日本知識人もマスメディアも、この発言を問題視しなかった。茨木のり子ひとりを除いては…。「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学的方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては、止まり、また噴きあげる」(「四海波静」より)
晩年の彼女は朝鮮語を独学して尹東柱など朝鮮の詩人たちを日本の読者に紹介する一方、社会の急速な右傾化を嘆いた。1999年、73歳で出した詩集『倚(よ)りかからず』は「日の丸・君が代法制化」が強行される渦中に出版された。「もはやいかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて心底学んだのはそれぐらい」「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」
2006年2月、詩人からの手紙が私に届いた。「このたび私、(2006)年(2)月(17)日、(クモ膜下出血)にて、この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです」
詩人は、みずからの死亡通知書まで用意して、ひとりで去って行ったのだ。いま、日本でも韓国でも、「6月」で歌われたユートピアのイメージはむしろ冷笑の対象にされている。「どこかに美しい人と人との力はないか…」いまは、あのユートピアの光と、詩人の颯爽とした後ろ姿を想い起すべき時である。
韓国語原文入力:2016-01-22 20:40