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70年の歳月びっしり…‘営団住宅’潰すのか

原文入力:2010-04-25午後09:03:39(1694字)
日帝時 ソウル,文来洞に作った初めての大型住宅団地
再開発の兆しに "歴史・文化空間 保存" の声

ソンチェ・ギョンファ記者,シン・ソヨン記者

←ソウル,永登浦区,文来洞一帯に残っている営団住宅の現場。シン・ソヨン記者 viator@hani.co.kr

ソウル,永登浦区,文来洞のサムウォン ナウビル アパート15階の窓から正面を眺めるとソウルでは見ることが難しい風景が広がっていた。

目の前には同じような屋根の日帝時代の平屋建物500余棟がきちんと一直線に建ち並んでいた。500棟を中心に周辺にぎっしりと建ったアパートはこの古く低い家々を飲み込むように空高く伸びていた。去る2月25日、現場取材に同行したアン・チャンモ京畿大建築大学院教授(現 文化財専門委員)は「1940年代初期、現在の住宅公社に該当する朝鮮住宅営団が作った労働者住宅が現在までそっくり残っている所はこちらだけだ」と説明した。営団住宅は当時、大規模団地型住宅の最初のモデルだった。

営団住宅団地内に入ると‘テアン産業’,‘ホンソン機工’,‘トンジン研磨’等の看板を掲げた10~15坪の小規模工場がびっしり並んでいた。こちらで大工として働き50年近く暮らしたという住民タン・ユンオク(75)氏は「60年代初めにここに移ってくると、日本式家屋構造を韓国式に変えお金をたくさん稼いだ」と自慢した。こちらの家々は大部分がタン氏のような大工の手を経て用途に合わせて改造され、住宅・市場・工場など数多くの変形を経て私たちの暮らしの現場になってきた。アン教授は「開発ブームでこちらの歴史が皆消えてしまう前に、1,2ブロックだけでも残さなければならない」と話した。

永登浦区,文来洞の営団住宅は、住宅不足現象を解決するため1942年頃に建てられたと推定される。1919年3・1運動の後、都市に移動する農民層が急激に増え、韓国に流入する日本人の数も多かった。1930年代からは日本が韓国を兵たん基地として設定し、軍需産業が発達し労働者の住宅問題がより一層深刻化した。こういう住宅問題を解決するために、1941年に朝鮮総督府が建てたのがまさに朝鮮住宅営団であり、朝鮮住宅営団が作ったのが即ち営団住宅だ。ソウルでは特に文来洞,上道洞,大方洞などに営団住宅が建設された。

この内、唯一500棟がそっくり残っている文来洞の営団住宅はアマチュア写真作家たちが頻繁に訪れる所でもある。今ではめったに見られない近代の姿を写真に収めることができるためだ。アン・チャンモ教授は「日帝時に建てられ今は所々が廃虚になっていてもおかしくないのに、今も空き家が殆どないほどに活用がうまくいっている」とし「日帝強制占領期から経済成長期を経て現在まで、都市住居の興亡盛衰が含まれているこちらを開発前に一部だけでも保存しなければならない」と話した。

ファン・ビョンウ文化連帯文化遺産委員長も「今の低密度産業施設をそのまま置いたまま、片側を文化芸術創作空間として作る方式で既存の姿を生かさなければならない」と話した。

しかし、こちらもすでに所有主たちを中心に開発風が吹いている。住民タン・ユンオク氏は「何年か前から一部の所有主たちが主軸になり、開発推進委が構成され活動中」としながら「開発よりは小規模工場から受け取る家賃で生活する方が良いと考える人々もいるが、数はそんなに多くない」と伝えた。反対に借家人たちはそのまま残すことを望んでいる。

90年代初めにこちらに定着した後、2代にわたって工具店を経営するソン・キボン(37)氏は「こちらは小規模工場が密集しシナジー効果を出している」として「開発で他所に行くよりは、こちらで続けて商売できればうれしい」と話した。
ソンチェ・ギョンファ記者 khsong@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/417732.html 訳J.S