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[朴露子ハンギョレブログより] 自他不二

登録:2013-03-03 18:05 修正:2013-03-03 22:36
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私は最近言葉では言い表せない深い悲しみに包まれています。それは、実は1991年末からの知り合いのナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデー(Наталья Васильевна Мухлади)という人が数日前に亡くなったからです。高齢者で(今年は古希でした)末期の肺癌で死んだのですが、その死を前にして人生万事が無意味に思えて仕方がありません。そうですね。ナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーは果して誰だったのかを説明しなければなりませんが、これは少し大変です。彼女には人を捕らえて放さないあの「肩書き」の付いた職業もなければ(実は社会主義時代の荒仕事の経験以外に正式な職業を持ったことがありません)、大学の卒業証書もありませんでした。彼女がここ20年間やってきたことを、韓国的な言い方で説明すれば、おそらく「占い師」や「一種の巫俗従事者」ないし「やぶ医者」のような、やや語感が怪しい単語を動員しなければなりません。ロシアではこれを「экстрасенс」(超能力者)と呼んでおり、概して中国で言う「特異功能」に通じるものです。中国の場合は、毛沢東主席時代以来、西洋医学が未発逹な状態でこのような伝統的な治療法が必要だとして国家的に認めていますが、ロシアの場合は国家的な認定はなく、お金のない民間の人々に迎え入れられています。韓国の巫俗のような伝統的な儀礼などはなく、主にメディテーション、すなわち「気」の発散を通じての治療に専念するものといえます。ナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーは、こうした仕事をしながら食べていたと書かなければなりませんが、実際は「食べていた」という表現も適切ではありません。彼女は患者たちから一銭も受け取ろうとせず、ひたすらやや余裕のある篤志家たちからの援助、すなわち布施のみで暮らしていたからです。晩年は最低老後年金を韓国のお金で月々約20万ウォンほどもらっていました。レニングラードやモスクワを訪れた方なら、こんなお金ではそこで暮らせないということをご存知だろうと思いますが、ロシアなどといった旧ソ連地域の数百万人に及ぶ年寄りたちがこのような「最低年金」でただ死ねずに生きています。

 80~90年代、中国で「特異功能」を科学的に立証しようとし、幾多の試みがなされましたが結局立証は(まだ)不可能という結論に達してしまいました。私もそのような立証は可能なのか分かりませんし、ナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーが実際に人々を治療したのか、あるいは彼らに勇気と自信、「自分」を誰かが配慮してくれていると感じさせ、彼らに自分で立ち直る力を気付かせていたのか―すなわち心理治療だったのかはよく分かりません。しかし、そのような判断より遥かに重要なのは、こうした治療の効果なのです。特に、様々な葛藤に悩まされ心理的ないし精神的な苦痛にさいなまれ、苦しい現実に置かれた多くの人々は、「超能力者」の思いやりを実感し、「欲張りすぎないように」、「欲望を抑えるように」、「人の立場になって物事を考えるように」、「魚心あれば水心、率先して善意を示すように」などといった極めて常識的な彼女の助言を聞き、再び生きる力を得たし、私もその中の一人でした。実は、私にナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーは「超能力者」というより、仏教でいう「菩薩道の実践者」により近いものでした。お金や服のようなものが手に入れば、すぐにそれを必要とする人々に分けてやり、自分自身のためには時間も財物も絶対に使わなかったからです。「超能力」があろうがなかろうが、このような生き方は確かに真理の実践に当たります。

 私に余力さえあれば、いつかナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーの評伝でもまとめなければならないほど、彼女に絡む有意義な出来事や話はたくさんあります。中でも私に特に意味のあることは彼女のここ2年間の生き方でした。彼女は約2年前に肺癌にかかったことを知っていながら、誰にも話さず、これといった対策も立てなかったのです。以前と変わりなく暮しました。毎日のように気力は衰えていったものの、5分に一回ずつ掛かってくる電話に答え、Aにはダイエット療法の要旨を伝え、Bの家庭不和を解決し、Cの育児問題に助言し……、休む間もなかったのです。本人は死んでいくことを知っていながらも、それを天寿と思ったかのように、天命に従い人々を思いやりました。おそらく正確に言えば、他人のめんどうを見るのに忙しくて自分の死を顧みる暇がなかったようです。別の次元でいえば、何かを既に悟った人々に生と死はあまり重要でないかもしれません。両者は相対的なものだということを知っているからです。とにかく、ナタリヤ・バシルリエブナ・ムフラデーは死の約3ヶ月前まで人々を治療し続けました。身体的な苦痛で5分以上は話すこともできなかったのですが。このような態度からは、多くのロシア庶民たちが彼女に全面的な信頼を寄せた背景を垣間見ることができます。「超能力」と関わりなく、人々は愛他性や温もり、我を忘れる愛を感じれば、すぐに訪れてくるものでしょう。

 個体の生命は相対的なものです。実は個体の生命はそれ自体としてはあまり意味はありません。数百年はもとより、おそらく数十年が経っただけでも、私の書いたものの99%以上は、その時期的な意味を失い、単なる過去の証人になるはずです。また、私たちの生きている地球も、地球が位置した太陽系も決して永久的なものではありません。極めて絶対的なレベルでいえば、私たちはいつかはすべて跡形もなくきれいに消えてしまうことでしょう。個体は孤立した状態では、かくも虚しく無意味なものですが、それでも私たちの頭の中には「私」とこの星たち、この太陽、この木々、そしてこのあらゆる生命とのある無始無終の「関係性」に対する極めて強い「感覚」が刻み込まれています。そのような感覚があるからこそ夜空の星を見つめ、そんな感覚があるからこそ孟子の言葉通り井戸に溺れた子供を助けようとし、そんな感覚があるからこそ仏様の五戒を知らなくとも本能的に殺生を避けようとするのです。他者を殺す瞬間に自分をも殺してしまうということを人間はすべて知っているのです。真の社会主義者といえるワシリー・グロスマン(http://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Grossman)が―もちろん大韓民国で誰も翻訳するつもりもないような―彼の名作『人生と運命』(http://en.wikipedia.org/wiki/Life_and_Fate)において、この感覚を「本能的なやさしさ」、「本能的な善」と名付けています。彼は「本能的なやさしさ」を 非スターリン的な社会主義建設の哲学の基盤にしようと思っていたのです。自分で考えても、これ以上の社会主義の倫理哲学的な根拠を作り出すのは難しく、この「本能的なやさしさ」の話は結局は仏性に対する仏説にも通ずるものです。そのため、大きく見て社会主義と大差ない本当の仏教は、お寺も儀礼もそれほど必要としないと思います。ただ「自分」という存在は実在もしなければ、いつかは影も形もなく永遠に消えることを悟りつつ、「自分」を顧みる暇もなく他人のめんどうを見てから、笑いながら去っていけば良いのです。恐れることなく、笑いながらこんなふうに去っていくことができたら、本当に仏になったとみるべきではないでしょうか。仏とは何も特別なものではないでしょう。雑多な欲望を取り除き、自分と他人は一つだということさえ体得し、この真理のまま生きることができれば、それこそが仏なのです。

ああ、私は今どうやら仏教を考えながら自分の心情を自ら抑えようと努力しているようです。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/57307 韓国語原文入力:2013/03/01 01:25
訳J.S(3267字)

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