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[朴露子ハンギョレブログより] 本当の自由とは何か?

登録:2013-02-17 16:19 修正:2013-02-18 05:55
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私の同僚に面白い博士学位論文を書いている人がいます。それは、ノルウェーにおける夫婦間の家族再結合をめぐる国家的介入過程に関する論文です。私たちの常識では夫婦になること以上の「私生活」もないでしょう。配偶者選択に対する親の干渉さえも私たちには古めかしいものと感じられる時代に、国家が干渉するとなれば、それは「独裁ではないか」と疑われても仕方がないのではないかと思います。ところが、その同僚の研究を今日紹介してくれたノルウェーの『階級闘争』という日刊紙を読めば分かるように、ノルウェーではこの極めて個人的な問題に国家が合法的に(?)干渉しています。選択した配偶者が「外国人」ならばです。外国人と結婚することは本人の自由ですが、そのようにして配偶者になった人をノルウェーに連れてこようとすると、国家的な「許可」、すなわち配偶者資格のビザが必要になります。ところが、本人にノルウェー・クローネで242,000(約5千万ウォン)相当の年間所得がなければ、あなたには配偶者を連れてくる資格がないというのがノルウェーの「国法」なのです。もちろん、建前では「一定額以上の所得がない場合は、家庭を通しての外国人の社会統合は難しく、その生活条件が良くないなどといった人権侵害の危険があるため」というふうに合理化されていますが、その中の論理は明らかです。主に移民者と下級(非正規)労動者などで構成されているノルウェー社会の下部(約5~10%の貧民層と準貧民層)には外国人との結婚の自由はなく、彼らは国家的な福祉支援を受けている以上、国家の私生活への介入も甘受しなければならないという論理です。失業手当などといった所得は、元々国際結婚に関連した問題では「所得」として見なされません。もう少し正確にいえば、ノルウェー国家はそのようなやり方で主に貧しい非西欧圏の移民者の「行き過ぎた」(?)流入を防いでいるのです。配偶者資格のビザをその妻/夫に申請して断られた人々には、たいてい故国の恋人と結婚しようとするパキスタン、ソマリアなどの出身者たちが多いからです。そのような措置を示す用語は?

 そうです。「人種主義」ないし「人種差別」と言います。正確にいえば、ノルウェーは主に貧しい非西欧人たちを狙い、家廷生活への国家的干渉を行っているのです。実は、このような干渉の犠牲者の一人が私の所属学科の同僚、中国社会を教えている非正規講師の方です。中国出身であるこの非正規教員の夫の前年度(!)所得があの「魔の242,000クローネ」に少し満たないとして(夫もその時は非正規労働者でした)、彼女は移民庁で「結婚ビザ資格未達、中国で暮しなさい!」という言葉を聞かなければなかったのです。私が個人的に知っている被害者はこの方のほかにも4~5人いますが、全体の被害者総数は毎年数千人に至ります。にもかかわらず、このような国家的蛮行について、みなさんは韓国や西側のメディアで1行でも読んだことはありますか?ないでしょう?ノルウェーのメディアでも『階級闘争』以外には極めて少数のメディアがごくたまにしか関連記事を報じません。理由は?ノルウェー内外の「通念」では、平和賞を与える世界最富国、模範的な福祉国家ノルウェーが人種主義的な人権侵害を引き起こすはずがないということです。そしてノルウェー政府が行う政策なら、ノルウェー政府が行為者となっている以上、その政策が人権蹂躙に値するはずがないということも世界の「通念」なのです。つまり、確認のしようもなく、誤報の可能性が極めて濃厚な「金正日が女性に自転車に乗ることを禁止した」という類のニュースがノルウェーを含む西側世界では「個人の生活に無理やり干渉する北朝鮮国家」に対する非難の根拠としてある時期活用されていましたが、いざノルウェー本国で成されている「私生活に対する干渉」となると、論外なわけです。「北朝鮮は地獄、ノルウェーは天国」という「通念」が大多数の頭を支配しているからです。

 「自由は懐疑から始まる」。誰の言葉か今は思い出せませんが、これ以上の真理もおそらくないような気がします。何より支配者、支配体制が我々に強要してきた様々な「通念」に対する懐疑から始めるのです。たとえば、「私たちは産業化に成功した」などといった通念です。「私たち」とは果して誰のことでしょう。今、篭城中のチェ・ビョンスンと鄭夢九(チョン・モング)は果して同じ「私たち」の範囲に同等に属しているのでしょうか。おそらく、よく子弟たちをアメリカに送り出し、そちらの家財を管理させている韓国支配層の風土からすれば、チェ・ビョンスンと鄭夢九は今は同じ言語を使っているものの、二つの部類の孫や曽孫は言語的にも互いに異なる「私たち」にそれぞれ属しそうです。そして「主流」を「代表」するという「私たち」は、「産業化の成功」を成し遂げたとしても、その「成功」は、たとえば工場の労災事故で死んだ労働者の遺族や手を切られ足を折られた労働者にはいったい何の役に立つでしょうか。韓国の労災発生率は産業化された国の中で1位であり、労災後の原職復帰率はわずか35%(参考までにオーストラリアは83%)です。手が切断され骨にひびの入った人が原職復帰できないということは、一生貧乏のままその痛みを酒で紛らわせなければならなかったり、より稼ぎの悪い、おそらくは非正規労働者にならざるをえない職場に移らなければならないことを普通意味します。被害者たちには「私たち」とは何で「成功」とは何でしょうか?

 自由の味を知っている人なら、「通念」を疑い、世の中を被害者の立場から、周辺部、被抑圧者の立場から独自に、独立的に判断してみようと努めることでしょう。また「私たち」の立場にこだわらない限り、たとえば「彼ら」の光明星衛星や「私たち」のナロ号はまったく同じ宇宙における兵器(偵察用衛星)開発競争ではないか、ただし「彼ら」を(アメリカをはじめとする)「世界」が非難しながら「私たち」を支援し続けているだけではないか、そんなことを一度は考えることでしょう。自由の味を知っている人には「彼ら」の問題より「私たち」の悪事について遥かに良心に恥じることでしょう。なぜなら、「私」は「私たち」の構成員である以上、その悪事を防げなかったことについて「私」の責任もあるからです。自由の倫理は結局責任の倫理でもあります。しかし、メディアが支配し「通念」が支配する社会では自由はただで与えられるものではありません。毎日、毎瞬間、大変な努力をして勝ち取らなければならないものが本当の自由なのです。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/56378 韓国語原文入力:2013/02/14 22:56
訳J.S(2810字)

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