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[寄稿]啓蒙のプロジェクトは進行中 ウィリアム・ケントリッジの作品世界

登録:2016-01-01 08:57 修正:2016-01-02 17:04

 この原稿を書いているいま、2015年という年が過ぎ去ろうとしている。去りゆく年の後ろ姿は、例年にも増して暗鬱そのものだ。2015年は、日本政府が憲法解釈を恣意的に変更し、戦争参加への道を強引に開いた年でもある。

 11月13日にパリで「同時多発テロ」が起きた。130人の市民が殺害され、およそ300人が負傷したという。私自身にとってもなじみ深いあの街で、唐突に命を奪われた人々を想うと言葉もない。パリの事件に比べてあまりにも注目されないが、10月28日にトルコのアンカラで爆破事件があり、108人が死亡。11月12日にはレバノンのベイルートでテロが発生し、40名が死亡している。荒れ果てたシリアの地では連日、人々の頭上に爆弾の雨が降り注いでいる。シリア、イラク、アフガニスタン、パレスチナ…世界のいたるところで無造作に殺されている人々、パリの犠牲者を悼むと同時に、その姿もよく見えず、声すらあまり聞こえてこないこれら無数の人々の死を私は心から悼む。

 2001年、南アフリカのダーバンで開かれた国連主催「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する国際会議」は、欧米諸国が行ってきた奴隷貿易、奴隷制、植民地支配に「人道に対する罪」という概念を適用する可能性を初めて公的に論じる場所だった。アパルトヘイト体制からの解放を勝ち取った南アフリカでこの会議が開かれたことそのものが、人類が人種差別や植民地主義を超えて前進していくことができるという希望を与えてくれる象徴的な出来事だった。だが、会議は「法的責任」を否定する先進諸国の頑強な抵抗に遭って難航し、アメリカとイスラエルは退席して、所期の成果を挙げられないままに終わった。この会議から3日後、いわゆる「9・11」事件が起こったのである。「それはまるで、ダーバン会議をみて、植民地支配責任と補償の問題を平和的な対話を通じて解決してゆく可能性に絶望した者による、欧米諸国への応答のようにも見える出来事だった。」(‘화해라는 이름의 폭력’졸저”언어의 감옥에서”)

ダーバン会議と「9.11」からおよそ15年が経った。世界は米英が主導した「イラク戦争」を境に「対テロ戦争」の時代に突入し、その出口はまったく見えないままである。その出口に近づくためには、誰かを悪魔化して、際限ない対抗暴力に突き進むのではなく、つねに出来事の根源にさかのぼって思考する態度を失いたくない。かつてエドワード・サイードが「9・11」直後のアメリカで、「対テロ戦争」に雪崩うつアメリカ国民大多数の中にあって、孤立を恐れず訴え続けたそのことを、私もまた訴えたい。

しかし驚いたことに、こういう思考を理解することができず、私のような人間にまで「テロを肯定的に捉えている」と的外れな非難を公然と投げつける人物が存在する。どうして前記の記述をそのように読むことができるのか?あまりに読解力が欠如しているのか。それとも悪意の中傷なのか。いずれにせよ、こうした人々は、その主観的意図はともあれ、結局はジョージ・W・ブッシュ流の「対テロ戦争」の濁流に乗って、世界をより絶望的な暴力の循環へと引きずり込む役割を担うことになるだろう。

 「出来事の根源にさかのぼって思考」しようとする時、外せないキーワードは「植民地支配」である。いま世界は、欧米と日本による「植民地支配」の「負の遺産」に苦しんでいる。このことを深く考え(むしろ感じ)、克服の方向を探る上で必見の美術展が現在、国立現代美術館ソウル館で開催中だ。(윌리엄 켄트리지: 주변적 고찰. 2016.3.27까지)

私は2000年の光州ビエンナーレで初めてウィリアム・ケントリッジの作品に出遭った。その作品は一見して、他の作家たちのものとは印象が異なった。モノクロームのドローイングがコマ送りの映像でぎこちなく動く。奇妙なほどノスタルジックな世界。しかも、胸を締め付ける哀愁を湛えていた。それ以来、私は日本とヨーロッパの各地でしばしば彼の作品に会った。

 ウィリアム・ケントリッジは1955年南アフリカ共和国生まれ。「白人」である。「ケントリッジ」という姓は、ユダヤ教宗教指導者だった彼の曽祖父が1908年にリトアニアから移民する際、もとの姓カントローウィッチを改名したことに由来する。ここには19世紀末から20世紀初頭にかけての時期、ドイツとロシアに挟まれ、北はバルト3国から南はウクライナに至る地域に生きたユダヤ人たちの遍歴が色濃く投影している。近年、歴史家によって「流血地域」と名づけられたこの地域は二度の世界大戦の戦場となり、ナチズムとスターリニズムに挟撃されて、20世紀の半ばまでに民間人だけでもおよそ1400万人が殺害されたとされる。(Timothy Snyder,“Bloodlands”)。

 現在、南アフリカには10万人あまりのユダヤ人が住んでいるといわれる。そのほとんどは、19 世紀末から1930 年にかけてリトアニアから移民してきたユダヤ人の子孫である。彼らは金とダイヤモンド採鉱の先駆者であった。1930 年になると、移民の入国を制限する法律が施行され、アフリカーナー(オランダ系白人)過激派の間では、反ユダヤ主義が急速に広がった。ホロコーストとスターリニズムの脅威を逃れてヨーロッパ大陸の奥からアフリカ大陸の南端にまで流れてきた彼らは、そこでかりそめの安全と(幸運な者は)経済的成功を手に入れた。しかし、その土地は同時に、ナチス流の人種主義が国家政策として実践され、ナチス敗北後も地球上でナチスが夢見たディストピアが生き残っている代表的な場所であった。白人としてのユダヤ人は黒人先住民に対しては支配層であったが、白人の中では反ユダヤ主義的偏見の標的でもあった。

現実のウィリアム・ケントリッジの一家は、アパルトヘイト体制と闘った進歩派だったようだ。彼の祖父は労働党の弁護士と国会議員を務めた。祖母は南アフリカ最初の女性法廷弁護士であった。弁護士であった父はアパルトヘイト時代後期、シャープヴィル虐殺事件やスティーヴン・ビコの死についての調査、そしてネルソン・マンデラの裁判など主な裁判や調査で重要な役割を演じた。

「Felix in Exile」(1994年)はとりわけ哀切きわまる印象を残す作品である。この作品には、官能的であると同時に威厳を備えたアフリカ人女性「ナンディNandi」が登場する。亡命中の孤独な部屋でFelix は故郷に思いを馳せる。鏡をのぞくと、自分の姿ではなくNandi が映って彼を見返している。その背後に映る故郷の風景は寒々としており、数々の死体が散乱している。故郷で横行する暴力を、Felix はただ亡命先の小部屋から、鏡ごしに眺めているだけだ。ついに、どこかから飛んできた銃弾に撃たれてNandi が倒れる。悲しみの青い水が溢れて風景を満たし、Felix は水の中に立ち尽くす。Nandi は「故郷」「アフリカ」「女性」の暗喩。吹き荒れる暴力の中、威厳を保って立つ女神である。Felixはこの女神に近づきたいと切望する。しかし、彼は亡命の身であり、小部屋に孤立して、鏡ごしに女神が倒れるのを見ているしかない。(アパルトヘイト時代の南アフリカには、1949年以来、異なる「人種」間の結婚を禁止する雑婚禁止法があり、1950年からは白人と非白人の恋愛を禁止する背徳法があった。)

 2005年秋、私はベルリンでケントリッジの重要な個展「Black Box/Chambre Noire」を見た。この作品は素朴な木造の小舞台を作り、そこで影絵人形を動かしたり映像を投射したりするものである。その中央に、古い記録映画の1シーンであろう、白人探検家のライフル銃に撃たれて大きな犀が倒れる様子が繰り返し映し出された。まさに植民地主義の寓意だ。この「ブラックボックス」に隠されていた記憶は、1904年のドイツによる南西アフリカのヘレロ族虐殺である。

 この作品はモーツアルトのオペラ「魔笛」の舞台美術から生まれた。「魔笛」が啓蒙主義 The Enlightenmentのユートピア的時期を示唆しているとすれば、ブラックボックスはその終末を表している。啓蒙主義の原義は「光を当てる」という意味である。後進的な闇の世界に住む者たちに知識と理性の光を当てる、ということ。しかし、その光と闇をめぐるプラトン的な思想そのものに、植民地主義を正当化するような両義性ambivalenceと暴力性が内包されているのではないか。ケントリッジはそのことを問いかけているのだ。

 アフリカ植民者の子孫であるケントリッジの作品が欧米で高く評価されている点について、一部ヨーロッパ人の心理的「アリバイ」にされているのではないかという指摘がある。この問いには、ケントリッジ自身のこんな言葉が回答になるだろう。「白人罪悪感(White guilt)よ、帰って来い。白人罪悪感はかなり非難されている。ただ、そのとりわけ顕著な特徴は、いまや滅多に見ることができないということである。それは、ごくたまに一滴ずつ服用される小瓶の薬であり、効力はそう長く続かない。」

 アウシュヴィッツの生存者エリ・ヴィーゼルの小説『夜』に寄せたフランソワ・モーリヤックの序文にこんな一節がある。彼はナチ占領下のフランスである日、東方に移送されていく子供たちの姿を見た。「西洋人が18世紀に抱懐し、1789年(フランス革命)にいたってその曙光を見たように思った夢、そして1914年8月2日(第一次世界大戦開戦)までは知識の進歩や科学上の諸発見によって強まりきたった夢、その夢が私にとっては、幼い男の子をスシ詰めにしたそれらの貨車を前にしたときに完全に消え失せてしまった。」

私たちは、啓蒙主義の夢がこのように消え失せてから100年後の時代を生きている。

 今回、韓国でウィリアム・ケントリッジの大規模な個展が開かれるのは画期的なことだ。南西アフリカでヘレロ族虐殺が行われていたとき、この地では抗日義兵討伐と称する虐殺が行われていた。その過程を経てこの地は日本に植民地化され併合された。併合期間中、この地の人々はきびしい植民地支配と民族差別を受けた。この地はいまも分断されており、人々は不安と憂鬱から解放されていない。ここは、そういう場所である。

徐京植・東京経済大学教授 //ハンギョレ新聞社

 12月1日、展示開幕式の行事でおよそ250人の比較的若い聴衆を前に、私はケントリッジと公開対談をした。「啓蒙のプロジェクトは挫折したと思いますか?」と私が問うと、彼は即座に「そうは思わない」と明言した。「自由、人権、平等、民主主義、これら啓蒙のプロジェクトは未完であり進行中である」と。彼にとってもアパルトヘイト体制打倒の瞬間は「祝祭のようだった」という。ふりかえれば私たち民族にも「祝祭」的瞬間はあった。植民地支配からの解放の瞬間、軍政が打倒された民主化実現の瞬間…新しい年の初めにあたって私は、こうした瞬間の歓喜と、その瞬間のために犠牲となった多くの人々をあらためて記憶したい。

 「9・11」の後、エドワード・サイードは「重要なゴール」を失ってはならないと語った(『文化と抵抗』)。「重要なゴール」とは、「自由と解放と啓蒙を求めるあらゆる民族が集う、勝利の会合」である。目の前の闇は深いが、植民地支配を経験した私たち民族もかならずこうした「勝利の会合」の一員になるという夢を失うわけにはいかない。

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-12-31 18:39

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/724287.html

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