私の専攻は思想史だ。 その中でも最近主に勉強してきたことは民族主義関連の思想的潮流だ。 そんな勉強をしてきて、最近一つの変化を感知することになった。 1990年代末まで、韓国では“民族”に対して距離を置くことは左派の一部だけで可能だった。 植民地時代のマルクス主義者は大慨は民族革命を社会主義革命の必然的前段階と規定しながらも、民族を血縁共同体というよりは資本主義時代の構成物と考えたし、民族主義の危険性を警戒した。 それとは反対に、右派は -単一民族という言葉を最初に使ったイ・グァンスのように- 「我が民族」を神秘化したり、日帝と妥協する場合に日本の民族主義の磁場に編入されたりした。 彼らには、左派の“階級”を相殺させる道具と言えば“民族”しかなかった。
ところが1990年代末以後に次第に本格化したニューライトの新右派的思考が“脱民族”を叫んでからは、“民族”は次第に韓国の右派的主流の言辞としての痕跡を失い始めた。 太陽政策時期には“統一”と関連してかなり議論されたりしたが、特に李明博(イ・ミョンバク)政権によって太陽政策が廃棄された以後は、“民族”の席を“国民/国家”、そして何よりも“国家競争力”が占めてしまい、左派民族主義こそが強硬保守政権の“公敵1号”になった。 ついに階級左派の一角で使われた“従北”のような単語が右派的主流によって専有され、左派民族主義者を魔女狩りする道具になり、“従北”に追い込まれた統合進歩党は強制解散されてしまった。 これと同時に、制度圏談論は早期に民族主義から大韓民国主義に、すなわち国旗掲揚と“国父”李承晩(イ・スンマン)・朴正煕(パク・チョンヒ)崇拝、“国軍”に対する誇りなどに移動してしまった。
李承晩と朴正煕が好んで使った“民族”を、なぜその崇拝者が今は忌避するのか? 左派の一部の民族相対化が階級意識に対する強調の結果だとすれば、右派の“脱民族”は大きく見て韓国資本の利害関係に合わせた結果だ。 新自由主義時代に、すなわち世界体制核心部の資本が韓国の銀行や株式市場に主導的影響を及ぼす反面、韓国がカンボジアやバングラデシュの繊維工業分野で最大の投資国になる時代には、資本の国際的移動に若干でも邪魔になりうる“民族”のような概念は清算の対象だ。 幼い時から米国など核心的な社会で成長し韓国語より英語が堪能な新自由主義大韓民国の次世代エリートの日常も、低賃金労働力補充と人口政策の名で労働・結婚移住が活性化した現実も、“民族”とは合わないので“民族”が廃棄の対象に上がった。 加えて“民族”愛好の重要な背景に韓国支配層の北朝鮮領土に対する主権主張などがあったが、この主張は以前のような強度を示さなくなったようだ。 北朝鮮が崩壊し韓国の支配者がそれとなく望んでいる“引受引継”式の統一に至る可能性も少なくなっているうえに、南北経済協力より東南アジアなどに対する“経済植民化”がより多くの利潤を生み出すという一種の判断があるためだ。
右派も少なくとも部分的には“脱民族”に向かっているが、左派も左派なりに“民族”イシューに対する関心を喪失した。 ひとまず外国系人口が人口全体のほとんど3%に肉迫する状況では、“民族”という単語は排除の序詞としか聞こえない。 そこに“民族”と深く連結されている“統一”議題に対する懐疑が加味される。 一面で保守化された雰囲気の中で、“米軍撤収”、“不平等条約廃棄”、“自主的統一”を語ることは、現実政治を行おうとする左派としては耐え難い負担だ。 また、一面では、統一の相手となる北朝鮮の姿からは如何なる未来指向的な部分も発見が困難になった。 1980年代末までは北朝鮮をたとえ歪曲がふくまれていようと、一旦は“現実社会主義国家”として見たりもしたが、今日表面化した北朝鮮の姿は資本主義に向けて移動する北東アジアの一つの後れた経済・社会だ。 そのような状況では、世論を読んで戦略を立てなければならない左派としては、“民族”も“統一”も訴求力の弱い旧態依然なスローガンになる。
もちろん“民族”に対する左派の懐疑には、濃厚な現実性がある。 “民族”を永く保守的制度圏が対民間動員用として、政権の名分付与用として利用した経歴もある上に、韓国の大資本がアジアや東ヨーロッパではもちろん、西欧や米国でも“雇い主”として君臨する資本国際化時代に“我が民族”と“被搾取大衆”を単純に同一視することは不可能だろう。 同じように、南北統一の過程では“民族”の名分だけが単純に先立つことも難しい。 世界資本主義的序列の中で、南北の位置がそれぞれ現実的に対照的になった以上、“民族”を前面に掲げた拙速な統合は、実際に北の住民たちにとって災難になり得る。 北朝鮮脱出者が韓国で体験する貧困と不安労働、差別の姿を見れば、その災難とはどんなものなのか簡単に推し量ることができる。
それでは、第2次世界大戦以後に学界で“人種”という用語を次第に廃止したように、私たちが今まで使い続けてきた“民族”の概念も同じく廃棄処分するべきか? おそらく“血縁共同体”という意味ならば、もはや意味がないだろう。 結婚件数全体のうち国際結婚が10~12%に達する今の時代には、血縁的“民族”は差別的用語に過ぎない。 言語共同体としての民族も明確に再考されなければならない。 外来語だらけの南朝鮮語のために、韓国での生活への適応が難しいと北朝鮮脱出者たちがいつも不平を言うほどに、南と北の言語はもはや同一ではない。 いくら“民族言語の同質性回復”のために努力したとしても、半世紀以上にわたる相異なる言語政策の効果を相殺するには力不足だ。 ロシアおよび中央アジアのほとんどの高麗人の日常言語はロシア語であり、在日朝鮮人の成人の59%程度が日常語として日本語を使っているという研究結果がある。 “延辺弁”を韓国で使えば、差別の対象になるのが常だ。 すなわち“単一な民族語”は神話に過ぎない。 同様に“民族”は政治意識の単一性を意味するわけでもない。 韓国人の大部分は今日のような極めて不公平な韓米関係を当然視しているが、大多数の北朝鮮人と多くの朝鮮族や高麗人、そして相当数の在日朝鮮人にとっては米国の軍事的保護領としての韓国の位置は到底肯定的には感じられない。
そうだとすれば、従来の“民族”が相対化されている状況での“コリアン”の実体は何か? 結局、地理・歴史、これを背景とする個人的アイデンティティの選択と見る。 いくら“民族”を相対化し統一至上主義を克服しても、南北が分断されていて各自が互いに潜在的敵となる国際同盟関係に属する以上、朝鮮半島全体が常に緊張状態に置かれるだろう。 “民族”の神話を越えても、特にこの頃のようにアメリカ帝国と世界体制準周辺部の帝国である中国、ロシアとの関係により緊張が尖鋭化している状況では、朝鮮半島の二つの国家の中立化統一への動きが切実に要求される。 世界の軍事的な中心から距離を置くという意味での中立化、そして朝鮮半島脱軍事化を意味する統一への旅程でないならば、朝鮮半島は平和で幸せにはなりえないだろう。 結局、“民族”以後の民族の新たな脱血縁的な意味は“国家”の枠組みだけでは不可能な朝鮮半島すべての生命の平和権・幸福権ではないか? 民族談論の遺産から肯定性を見出そうとするならは、兵営国家である韓国と北朝鮮の境界線を越えて、朝鮮半島の平和、世界帝国から独立的な朝鮮半島人のアイデンティティであろう。 これは生かし続けなければならない遺産ではないか?
このような次元で“民族”以後の民族は、コリアンの多様性に対する認定を意味するだろう。 民族語は複数だ。 平壌(ピョンヤン)の文化語(北朝鮮の標準語)も、日本語が混ざった在日朝鮮人の朝鮮語も、高麗語も同等な民族語としての地位を得なければならない。 同時に資本主義的現実の中で、北朝鮮人、朝鮮族、高麗人など多くの低賃金地帯のコリアンが広義の被搾取大衆に属することになるという点に対する考慮も、コリアンを含む朝鮮半島内外の被搾取・被差別集団に対する連帯も、このような概念に含まれなければならないだろう。 “民族”は社会的構成物に過ぎない。 だが、その構成物において各種の被差別少数者との連帯と朝鮮半島の脱軍事化を追求するだけの余地があるならば、これを積極的に活用しなければならないだろう。