「キル・ユンヒョンさん。沖縄の米軍反基地運動で最も弱い点がなにか分かりますか?」
沖縄知事選挙を前日に控えた15日夜。沖縄の那覇にある居酒屋で豊見山雅裕 沖縄民衆連帯代表(60)と顔を向き合わせた。彼と初めて会ったのはおそらく2006年だったと思う。その頃ハンギョレ新聞社の時事週刊誌『ハンギョレ21』は、米軍基地拡張反対闘争の真っ最中だった平沢(ピョンテク)の大楸里(テチュリ)を背景にキャンペーン記事を連載していた。当時5年目の記者だった私は毎週のように大楸里に行き、「野原が泣いている」というタイトルをつけ、国家の暴力に無防備に晒され日夜疲れ果てて行く住民たちの日常を記録した。平穏だった村が基地拡張に対する賛否で切り裂かれ、村と農地を諦められなかった住民たちは決死の抗戦態勢に突入していた。豊見山は同じ痛みを共有する沖縄を代表し、応援のため二、三度大楸里を訪れたことがある。
「何ですか?」
彼のグラスに沖縄の伝統酒アワモリを注ぎながら尋ねた。戻ってきた返事は意外なものだった。
「それはヤマト(日本本土)の人々との連帯だ。本土の人とはなかなか話が通じない。信じられないかもしれません。同じ日本でもそうなのだから、とても理解できないでしょうが、実際にそうなんです」
よく考えてみるとそんな気もした。沖縄では在日米海兵隊のMV-22(オスプレイ)などが配置された普天間飛行場の辺野古移転問題をめぐり大騒ぎとなった激しい選挙が進んでいた。それに対して東京を中心にした巨大マスコミの反応は実に冷淡だった。日本の進歩陣営の情緒を代弁する『朝日新聞』と『東京新聞』が2回ほど選挙の争点を扱ったのがすべてである。こうした本土の無関心の中で、日本の国土の0.6%に過ぎない沖縄に在日米軍の74%が駐留する奇形的な構造が60年を超えて維持されているのだ。
これは沖縄だけの問題だろうか。8年前の平沢ファンセウルのあぜに座り込み慟哭した大楸里の農民の顔が思い出された。おそらく、当時の韓国社会が大楸里問題を自分の問題として受け入れ、代案を探そうとする真剣な努力をしていたなら、私たちの社会は今より不幸ではなかったかもしれない。
大楸里闘争には解放以後の韓国社会を規定してきた様々な争点が混在していた。まず最初に、韓米同盟を維持しながらも韓国の国益と必ずしも一致しない米国の要求をどう緩和させていくのかと考える自主性の問題、二番目は国益という名のもと個人の犠牲を当然視してきた前近代的な問題解消システムの問題、三番目は社会的弱者という理由で農村の高齢者を犠牲にした公権力による人権侵害問題だ。しかし、韓国社会は日本が沖縄でそうだったように、これを平沢の大楸里・棹頭里(トドゥリ)に住む少数の老人たちを犠牲にする安易な道を選んでしまう。
こうして平沢を捨てた大韓民国は幸せになったのだろうか。最近あふれ出るニュースを見ていると胸が詰まり息をするのも辛くなる。朴槿恵(パク・クネ)大統領は2015年12月に予定された戦時作戦権の移管を無期限延期して対米追従の道を選んだし、私たちの国益に致命的な「サード」(THAAD・高高度ミサイル防御網)を受け入れようとしている。セウォル号遺族たちは平沢の農民のように孤立したまま涙ながらに妥協案を受け入れたが、彼らに対するイルベや西北青年団といった群れによる破廉恥な攻撃は、私たちが成し遂げた民主主義は果たして何だったのかという根本的な疑問を投げかける。
それでも沖縄民衆は16日の選挙で、基地移転に反対する新しい首長を選び抵抗の小さな橋頭堡を築くのに成功した。平沢を、龍山(ヨンサン)を、密陽(ミリャン)を、そしてセウォル号を冷遇し続けた韓国社会に未来はあるのだろうか。
韓国語原文入力:2014.11.20 18:37