幼くして日本の戦争犯罪企業へと連れていかれ、死の恐怖をあじわったチョン・シニョンさん(93)の損害賠償請求訴訟の一審判決が、提訴から4年を経て言い渡される予定だ。
光州(クァンジュ)地方裁判所民事13部(イム・テヒョク裁判長)は9日、チョンさんが三菱重工を相手取って起こした損害賠償請求訴訟の弁論を終結し、来年1月18日午前9時50分に判決を下すと発表した。
チョンさんは9日、(社)日帝強制動員市民の会の会員たちの助けを借りて、法廷に証人として出席した。杖をついて裁判所に入ったチョンさんは、「杖は私の脚だよ」と冗談を言うなど、余裕のある様子だった。
1944年春に羅州初等学校を卒業したチョンさんは同年5月、「日本に行けば学校にも通わせてくれるし、金も稼げる」という言葉にだまされ、三菱重工名古屋航空機製作所に強制動員された。その時、羅州(ナジュ)から共に動員された人の数は、ヤン・クムドクさん(94)をはじめ25人だという。
チョンさんは「どんな仕事をしたのか」と原告側弁護士に問われ「アルミの板を飛行機の下に置く仕事をした。食堂の掃除もした」、「名古屋に着いた時に名古屋城を見学させてくれたりもしたが、後にはそのようなことはなかった」と話した。
チョンさんは「たまにお金をもらったが、氷を買って食べたらひとつも残らなかった」、「ご飯を食べ切らずに捨てる人がいたので、とてもお腹がすいていた時は友達と残飯をあさったりもした」と被害を説明した。
1944年12月7日に発生した東南海地震では7人の友人が死亡したとも述べた。チョンさんは、「爆撃だと思って防空壕に逃げた。外にいた7人の友達が死んだ」、「私は学校で歴史の勉強をしていて先生と運動場に逃げたが、地面が割れており、辺りが水であふれていた」と語った。
チョンさんは「米国の空襲の時は布団を持って犬小屋ほどの大きさの防空壕に逃げ込んだ」、「寮が焼夷弾にやられたので、はしごで火を消しに上ったこともある」と話した。
三菱重工側の弁護人は尋問を行わなかった。イム部長判事は、「出てきてくださり感謝もうしあげる。これで審理手続きは終了した。弁論を終結して判断することにする」と述べてこの日の裁判を終えた。
チョンさんは口頭弁論の終了後、報道機関のインタビューに応じ、「(裁判で)言いたいことは多いが、全部は言えなかった」、「安倍元首相は韓国の人々を無視したが、岸田首相はそうでなければよいと思う」と訴えた。
日帝強制動員市民の会は、2012~2014年に起こされた3件の勤労挺身隊訴訟のうち1件は最高裁で勝訴判決を勝ち取り、2件は最高裁で塩漬けになっていると述べた。日本の戦犯企業11社を相手取って起こされた集団訴訟は、2019年の9件は原告が54人、2020年の6件は原告が33人おり、現在、光州地裁で進められている。