旧暦7月16日の夜は、村の家々が明るかった。同じ日、同じ時刻に法事を行う家が17世帯にもなった。子どもの頃は「本当に奇妙だ」と思ったが、その理由はよく知らなかった。日帝強占期に済州に強制動員された祖父は海難事故から生きて帰ってきたが、30代後半で亡くなったという話を聞いて育った。「黄山玉埋(ファンサン・オンメ)鉱山118人犠牲鉱夫遺族会」の会長を務めるパク・チョルヒさん(69、門内面)は4日、ハンギョレの電話取材に対し、「口述採録をするために村を訪ねてきたある歴史学者の勧めで、10年あまり前から玉埋鉱山鉱夫の海難事件の『真相究明』に身を投じている」と語った。
全羅南道海南郡黄山面玉洞里(ヘナムグン・ファンサンミョン・オクトンニ)と門内面龍岩里(ムンネミョン・ヨンアムニ)にまたがる玉埋山には、ミョウバン石が多く埋まっていた。ミョウバン石はアルミニウムの原料で、戦闘機などの軍需品の製作に使われる。玉埋鉱山では1937年の日中戦争開戦以降、採掘量が増え、1944年に朝鮮総督府の指定軍需会社となった日本の浅田化学工業(株)は労働者を強制動員した。門内面と黄山面に住んでいた住民のうち500~1200人あまりが、日本企業の経営する玉埋鉱山に強制動員された。パク会長は「玉埋鉱山の労働者を含む全国の多くの鉱夫が、日本が本土死守の砦にしようとしていた済州に改めて強制動員された」と語った。
玉埋鉱山の300人あまりの鉱夫は1944年3月、3回に分けて済州に連行された。済州のモスル浦(モスルポ)近隣地域、旧左邑(クジャウプ)の海岸洞窟、山房山(サンバンサン)などの軍事施設の構築工事に投入され、陣地を構築するのが主な任務だった。彼らは「長時間労働に苦しめられ、牛のエサのような飯を食わされ、下着だけを着て幕舎もなく木の枝を積んで作られた場所で生活」させられた。翌年解放されると、8月23日午前1時ごろ、250人(日本人管理者3人を含む)を乗せた35トン級の木造船に乗って帰郷の途に就いた。パク会長は「鉱山と鉱夫の架け橋役だった故キム・ベグンさん(2022年死去)が『木造船が沈まないか心配し、鉱夫たちが船に乗る度に数字を数えた』と語っていた」と述べた。
帰郷船は全羅南道莞島(ワンド)の青山島(チョンサンド)沖で機関の故障を起こした。原因不明の火災も発生した。鉱夫たちは沈没する船から飛び降りた。ちょうど日本の警備艦(軍艦)が事故海域に接近していた。故キム・ベグンさんと日本人管理者の1人だけがまず救助された。パク会長は「軍艦は事故にあった人たちが朝鮮人だという話を聞いて、生きている人たちをそのまま置いて行ってしまった。果ては、船に乗ってこようとする鉱夫たちを突き落としてしまったという」と語った。パクさんの祖父(パク・コムスルさん)も海に浮かんでいた木の足場にしがみついていたところ、満ち潮に押し流されて青山島の住民たちに救助されたが、その際に肺を痛め、3年足らずで生涯を終えた。
帰郷船に乗っていた鉱夫のうち、118人が死亡した。名簿で名が確認されているのは、そのうち75人のみ。把握されている生存者の名は67人のみ。済州から生きて帰ってきた人たちは「済州契」を結成して春と秋に日を決めて会合を持った。政府は「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者等の支援に関する法律」(2007年12月)の制定時、日帝によって国外に強制動員された被害者にのみ慰労金を支給することとし、国内動員者は対象から除外した。2012年に政府レベルの初の真相調査報告書が出されたが、浅田化学が名簿を公開しなかったため、強制動員数すらきちんと確認されていない。パク会長は「浅田化学の後身である日本企業に6~7年ほど前から鉱夫の名簿をくれと言っているが、まったく回答がない」と語った。
追悼碑を建てたのは郡民だった。2017年、1350人あまりの郡民が1460万ウォンを集めて玉洞船着場の浜辺に「玉埋鉱山118人犠牲鉱夫追悼碑」を建てた。パク会長は「追悼碑を建てる前日に夢を見た。黒い服を着て帽子をかぶった方が追悼碑のオブジェのところに立って、ありがとうと言うんだよ。あの方たちの恨みが少し晴れたことを願うばかりだ。郡民が本当にありがたいし誇らしい」、「玉埋鉱山にまつわる悲劇を記録としてきちんと残してこそ、子孫が同じ痛みを味わわずに済むと思う」と話した。
玉埋鉱山の建築物の保存・活用対策を講じるべきとの声も強い。玉埋山中腹の鉱物倉庫は、韓国ナショナルトラストによって2017年の「今年の必ず守るべき自然・文化遺産」に選ばれた。玉洞里の海辺にある高さ10メートル、幅30メートルほどのコンクリートの構造物などは、日帝収奪の歴史的証拠だ。海南郡は2019年に鉱物倉庫や鉱山などに登録文化財の指定を受け、歴史教育の空間として利用しようとしたが、一部が学校法人朝鮮大学の所有であったため実現していない。パク会長は「日帝強占期の痛みと平和を伝える空間となることを願うばかり」だと話した。