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「司法の政治化」という用語の知的怠慢【寄稿】=韓国

登録:2025-05-29 08:35 修正:2025-05-31 08:20
イム・ジェソン|弁護士・社会学者
チョ・ヒデ最高裁長官をはじめとする最高裁判事が5月1日午後、最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン大統領候補による公職選挙法事件の全員合議体宣告のためにソウル市瑞草区の最高裁大法廷で着席している=共同取材団//ハンギョレ新聞社

 この寄稿の目的は、最近の韓国社会でよく聞かれる「司法の政治化」という用語が、適切になされた学術的・社会的合意のない、いわば「由緒のない」用語であることを指摘することだ。「司法の政治化」は最近になり、裁判所や判決を自分の都合に合わせて批判する過程で乱用されている。司法改革と裁判所改革のためには、適切に用いられる用語と概念で批判が行われなければならない。

 まず、現状から確認してみよう。全国の日刊紙10紙を基準に、1990年から現在までで「司法の政治化」が言及された記事数を確認したところ、2010年以前は1桁台にすぎなかった。2020年代に入ると年間50件を超え、昨年は90件ほど、今年は1月から5月までの間に150件ほどの記事が登場した。憲法裁判所のイ・ジョンソク所長が昨年の退任のあいさつで、「司法の政治化が民主主義の秩序を害する」と言及したりもした。

 用語の使用は急増しているが、内容は千差万別だ。韓国における「司法の政治化」は、「政治の司法化」(国家の主要な政策が司法府によって決定される傾向、行政府と立法府の役割が縮小され司法府に権力が移転される傾向)という全世界の多くの論者が長年にわたり研究して発展させた概念にも依拠し、その副作用程度に用いられているが、学界の共通した定義はない。外国の用例も珍しいが、確認される事例は、米国の州の裁判官選挙の過程における企業の資金支援に対する懸念や、最近になり裁判官の直接選挙制度を導入したメキシコの制度変化に関する分析の過程で登場する程度だ。新興民主主義国で裁判所が「政治化」したという分析もあるが、これは、民主化前の大韓民国の司法府が「権力の手先」として位置づけられていた状況に対する評価だ。韓国の現在の状況と一致する内容ではまったくない。

 最近の韓国でこの用語が使われた最も公式的な文書といえる、憲法裁判所のイ・ジョンソク長官の退任のあいさつを調べてみても、「政治の司法化の現象が発生すると、続けて司法の政治化が生じる恐れがある」「司法の政治化の現象は、最終的には憲法裁判所の決定に対する不信を招く」といった程度だ。この内容に現在の韓国の状況を積極的に代入して書き直してみると、次のようになる。「両極化した政治・社会的構造のもとで、激しい対立が土台にある事案(政策)を裁判所が判断し続けるのであれば、その判決を下した裁判所に対する非難、不信は強まらざるをえない」。この定義に従うのであれば、「司法の政治化」は、別の現象や概念として命名される理由としては弱い。司法の政治化において司法府は問題の結果であり、政治が司法に依存する傾向が問題の原因であるからだ。

 まったく違う内容もある。法律新聞に2023年掲載されたコラムでは、「権力を持っている政治家たち、特に扇動政治家が世論を背景に、立法を通じて裁判所を権力に従属させようと試みること」を「司法の政治化」と定義した。これは、由緒ある分析でもある。「政治の司法化」がなされる原因の一つとして、「ヘゲモニー保存戦略」を指摘する研究が多数ある。立法や行政の権力を失う可能性のある政治勢力が、司法府、特に最高裁判事に、自身の利害関係を最も露骨に代弁してくれる人物を配置することで、司法を通じて影響力を永久化しようとする戦略が、「政治の司法化」の背景にあるというものだ。司法が「人権の最後の砦」ではなく「国家運営の最後の砦」になるならば、最高裁判官の椅子に各政党の代理人を座らせるための欲望は露骨にならざるをえない。

 尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権下で、大統領の40年来の親友を最高裁長官に指名した事例(任命同意案は否決)、ハン・ドクス前大統領権限代行が、尹前大統領ときわめて親しいイ・ワンギュ法制処長を憲法裁判官に指名した違憲的行為のいずれもが、この脈絡で解釈することができる。この定義に従う場合も、問題解決の出発点は政治だ。

 韓国経済とマネートゥデイに今年掲載されたコラムは、それとも異なる内容で「司法の政治化」を定義しており、これが現在の韓国社会の一般的な用例だと思われる。「裁判官が、司法的判断に自身の政治的立場を投影する傾向が露骨になっている」「大統領の逮捕と拘束令状発行の過程における担当判事のイデオロギー的傾向」。前者のケースは、最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン大統領候補に対する今月1日の最高裁全員合議体判決に対する批判で、後者のケースは、尹錫悦前大統領の刑事裁判の手続きと弾劾審判の過程で多く登場した。陣営と法理は別にして、いずれも「司法の政治化」という批判で大同団結した。

 最高裁が異例のスピードでイ・ジェミョン候補に対する全員合議体判決を下したことをきっかけに招集された全国裁判官代表会議は、26日の臨時会議で、結論を出すことなく大統領選挙後に会議を再度開催することを決めた。これについて、東亜日報と韓国日報は社説で「司法の政治化」の論議を回避したと肯定的に評価した。一方、アジアトゥデイは同じく社説で、裁判官会議が「共に民主党の司法府掌握の法案に沈黙した」として、「司法の政治化という批判はそのため出てくる」と批判した。同じ事件に対する擁護と批判のいずれもが「司法の政治化」だ。いったい「司法の政治化」とは何なのか。

 「司法の政治化」という用語の使用をやめよう。内容の合意も分析的利益もない。裁判官が判決を適切に下すのかどうかを監視して批判するのは当然のことだが、この具体的な作業を、単なる「政治化」という単語であいまいにしてはならない。必要なことは非難しあうことではなく改革と代案であるならば、なおさらだ。大韓民国の憲法には「独立」という単語がちょうど2回出てくるが、そのうち1回が「裁判官は憲法と法律に則り、その良心に従い、独立して審判する」だ。この「独立」を土台に分析して批判して代案を見出そう。イ・ジェミョン候補に対する最高裁全員合議体の判決、特にその手続きは、三権分立と裁判官の独立を疑わせることになった。ならば、その代案もまた、独立を回復する措置でなければならない。

//ハンギョレ新聞社

イム・ジェソン|弁護士・社会学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1199932.html韓国語原文入力:2025-05-28 19:55
訳M.S

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