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日帝時代に隈に追いやられた徳寿宮光明門が“本来の場所に”

登録:2018-06-20 01:19 修正:2018-06-20 10:25
徳寿宮の高宗皇帝の寝殿だった咸寧殿の正門 
日帝強制占領期に撤去され隈に追いやられ 
19日、光明門復元工事の起工式開催 
惇徳殿・ソン源殿圏域も段階的に復元予定
現在、徳寿宮の奥の隅にある石造殿新館の隣で自撃漏の展示場として使われている光明門の姿=資料写真//ハンギョレ新聞社

 徳寿宮(トクスグン)の高宗(コジョン)皇帝の寝殿だった咸寧殿(ハムニョンジョン)の正門だったが、日帝強制占領期に撤去され宮廷の隈に追いやられていた「光明門」(クァンミョンムン)が80年ぶりに本来の場所に戻ることになる。

 文化財庁は19日昼、国立現代美術館徳寿宮館隣にある光明門で「徳寿宮光明門を本来の場所に」起工式を開き、この日から復元工事に入った。この日の起工式には、キム・ヒョンモ次長と文化財界の要人100人余りが参加した。

 光明門は、正面3間、側面2間規模の門で、高宗の寝殿だった咸寧殿の南側にあったが、1938年に日帝が宮廷の奥の隈に移設して、国宝の水時計(自撃漏)と神機箭(シンギジョン)、宝物の興天寺(フンチョンサ)銘銅鐘の展示場として使われてきた。文化財庁はこれに先立って2016年に光明門があった本来の場所を発掘し、かつての光明門の配置状態、平面形態などがそのまま残っている事実を確認した。

『徳寿宮国葬画帳』(1919年)に載せられたかつての光明門の写真。後方に咸寧殿が見える=資料写真//ハンギョレ新聞社

 文化財庁側は、今年末までに光明門を本来の場所に戻す作業を終えることにした。また、現在光明門内に展示された昌慶宮(チャンギョングン)自撃漏と神機箭は、大田(テジョン)国立文化財研究所文化財保存科学センターに、興天寺銘銅鐘は景福宮(キョンボックン)闕内各司跡の臨時処理場に移され、保存処理作業を経ることになる。光明門の移転は、文化財庁が構想してきた徳寿宮復元事業の最初の事業だ。旧韓末大韓帝国の正宮で、高宗皇帝の住居であった徳寿宮は、1919年に高宗が亡くなった後、日帝の意図的な毀損と公園開発により宮域が縮小され、多くの建物が姿を消した。文化財庁は、光明門の本来の場所への復元を始め、石造殿の後方にあった近代式建築物である惇徳殿(トントクジョン)は2021年まで、歴代の王の御真(肖像)を奉安した北側のソン源殿(ソンウォンジョン)圏域は2038年までに段階的に原形を復元する方針だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/849755.html韓国語原文入力:2018-06-19 20:12
訳J.S

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