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「刺され、撃たれ、運ばれていった」…光州刑務所の行方の分からない遺体の謎

登録:2024-05-18 09:22 修正:2024-06-01 12:35
1980年の5・18民主化運動当時、戒厳軍が市民を捕らえて軍用トラックで連行している=資料写真//ハンギョレ新聞社

 5・18光州(クァンジュ)民衆抗争で死亡したことが公式に認められているものの、遺体が見つかっていない犠牲者の数は73人。彼らは全員「行方不明者」として処理された。5・18行方不明者は、政府が5・18関連の死者数を公式発表した当初から大きな問題となっていた。人々は政府発表を信用せず、公式の死者数よりはるかに多くの市民が戒厳軍の犠牲になり、消し去られたと信じた。

 このような考えは、1980年代初めから歌われてきた「5月の歌2」という民衆歌謡に「なぜ撃ったのか、なぜ刺したのか、トラックに乗せてどこに行ったのか」という歌詞として登場する。この歌詞は、1980年5月21日に行われた全南大学から光州刑務所までの空輸部隊による抑留者移送作戦も重要な背景となっている。

 「荷物を積み込むように整然と人を重ねていました。車の中は人と人の間に隙間がないほどでした」

1980年5月21日、全南大学で抑留され、光州刑務所まで軍用車で移送されたキム・ビョンジュンさん=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 キム・ビョンジュンさん(65、光州市西区良洞)は14日のハンギョレの電話取材に対し、「後ろ手に縛られて動けなかった。ぐにゃぐにゃと踏んでいたが、寝かされている人を起こす方法はなかった」と話した。第3空輸旅団の兵士たちは1980年5月21日朝、全南大学の講義室と講堂に抑留していた200人あまり(軍の記録では120人あまり)の市民を放送用トラックと軍用輸送トラック2台に乗せ込み、4キロほど離れた角化洞(カクファドン)の光州刑務所に移動した。徒歩監視する兵士たちがトラックを幾重にも囲んで移動したため、時間がかなりかかった。

旧光州刑務所の航空写真=資料写真//ハンギョレ新聞社

 兵士たちはトラックに乗せた市民を無抵抗にするために、トラックに催涙剤「CS」の粉末を散布した。キムさんは「腕が催涙剤の粉末だらけになって、火傷を負って粘液が出た」と話した。呼吸困難を感じたある市民が車の小さな窓を割った。キムさんは「すぐに窓から剣先が刺し込まれた」と語った。5月19日に車両デモをしている途中に捕らえられたキムさんは、抑留から49日後に解放された。キムさんは「その時、刑務所から生きて出てきた108人は『108会』という講を組織したりもした」と言う。

 遺体の目撃者は多い。第3空輸旅団は午後4時ごろに光州刑務所に到着した。同旅団の下士(軍の階級名)だったキム・スンシクさん(69)は今月7日に全羅南道海南(ヘナム)でハンギョレの取材に応じ、「5月21日午後、光州刑務所に到着した軍用トラックから13体の遺体を下ろした」と語った。翌日にはトラックの中から、銃で撃たれた遺体も1体回拾した。キムさんは「連隊の情報将校が13人の遺体の顔をすべて撮影した」と証言した。

 第3空輸旅団の下士だったYさんは5・18民主化運動真相究明調査委員会(5・18調査委)に、「5月21日夜、ある上官の指示で、月が昇った時間に2台の手押し車で遺体を運んだ。1つの穴に2体ずつ3カ所、1つの穴には3体を埋めたと聞いた」と供述している。

チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/area_general/1140924.html韓国語原文入力:2024-05-17 05:02
訳D.K

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