「次官政治」
尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権で新たに登場した単語だ。今年6月の長官・次官人事で大統領室の多くの秘書官が政府省庁の次官として送り込まれたことから、メディアはこれを「次官政治」と呼んだ。東亜日報は社説で、「大統領と息を合わせてきた実力者の次官たちが国政運営の前面に立つ『次官政治』を予告した。来年の総選挙を控え、多くの目的を持つ布石とみられる。下半期から国政で可視的な成果をあげるためには、推進力を備えた龍山(大統領室)出身の次官たちが省庁を掌握し、動くべきだとの意図がうかがえる」と評した。
文在寅(ムン・ジェイン)政権で人事・検証作業にかかわった元大統領府秘書官は、尹大統領の次官政治について、必ずしも批判的に考えることはないと語る。
「大統領が国政哲学と目標を共有する秘書官を省庁の次官として送り込んだことが問題だとは思わない。大統領制の趣旨に照らしてみれば、大統領の考えを最もよく理解している人物を長官や次官に任命するのは当然のことだ。よく『帝王的大統領』が批判されるが、大統領の帝王的属性が最もよく表れる部分は権力機関と司正機関(監査院、検察、警察などの機関)の運用だ。誰かを標的にして調査をおこなったり、集会・デモに過度に対応したりすることは、大統領がその気になればいつでもできる。しかし政策の執行は異なる。政府立法をするにも官僚を通して行わなければならない。官僚が言うことを聞かなければ手足が縛られたように感じる。そのため、大統領をよく知る人物を長官や次官として送り込むことで官僚組織を動かそうという試みは、当然の統治行為の一環だ」
米国において、大統領とイデオロギーを共有しているかどうかを政府高官の任命基準にすることで国政運営に成功したと評価されているのが、ロナルド・レーガンだ。1980年11月の大統領選挙で「米国のプライドの復活」を掲げて勝利したレーガン大統領は、政府高官を任命する際、「哲学的確信」を最も重視した。レーガン政権でホワイトハウスの人事局長を務めたペンドルトン・ジェームズは、「我々は(政府高官の候補を選ぶ時)哲学的確信、清廉さ、したたかさ、力量、チームプレーヤーであることの5つを基準とした。そのうち1つ目の条件はレーガンに対する哲学的確信だった。もし誰かがこの政権で働くことになったとしたら、その人物はまずレーガンの政策目標を知らなければならない。大統領が輪郭を描いたプログラムに哲学的に合致する人物なのか、これが1つ目の人事基準だった」と、ヘリテージ財団のセミナーで語っている。長官だけでなく省庁内の高官についても、このような基準にもとづいてホワイトハウスが人事を主導したと同氏は述べている。
尹大統領が多くの側近を省庁の次官に任命したのは、このような面からみればそれなりに妥当性がある。問題は長官の力量だ。次官よりも重要なのは長官だ。各省庁に大統領の統治哲学を伝え、官僚を動かす核となるポストこそまさに長官だ。長官が有能であってはじめて官僚は従う。ペンドルトン・ジェームズをはじめとするホワイトハウスの人事業務を担った最重要参謀たちは、「大統領とのイデオロギー的目標の共有」に劣らず「行政能力を備えた閣僚の競争力」が重要だと語る。「力量の劣る長官」をそのままにしておいて、大統領室から次官を送り込んで省庁を動かすというのは、可能でもなく、効果的でもない。セマングムジャンボリーの悲惨な失敗には、組織委員長を務めた女性家族部長官個人の無能さが大きく作用した。先日行われた3省庁の長官の交代も、長官各々の力量の評価ではなく、大統領の理念的確信(シン・ウォンシク国防部長官、ユ・インチョン文化体育観光部長官)と個人的な親交(キム・ヘン女性家族部長官候補)にもとづいて人事が行われたことは否定できない。キム・ヘン候補の就任がならなかったのは、ある意味では必然的な帰結だ。
「力量の劣る長官」と「大統領の信任を得た実力者の次官」との組み合わせは、公務員が最もセンシティブなものと考える人事問題をよりいっそう政治化させる。以前と比べた最近の官僚社会の変化の一つは、大統領選挙で多くの退職官僚が候補の陣営に入るということだ。かつては特定の候補を支援するにしても水面下での支援が好まれた。最近は公に陣営に名を連ねるのが好まれる。そうしなければ、政権を握った後に省庁の高官や傘下機関の長として復帰できないからだ。中央省庁の局長級公務員は、「長官や次官はもちろん、傘下機関の長や、せめて傘下機関の役員になるためには、陣営ではっきりと『味方』だと認識されておかなければならない、というのが最近の雰囲気だ。候補の陣営で働いていなかった人物は、いくら能力があっても傘下機関の長の座に就くのは難しい時代になった」と語る。
このような雰囲気は、官僚社会に2つの相反する流れを形成する。高位公務員は現政権の5年の任期内にできる限り昇進を狙い、次期大統領選挙では候補の陣営に入る。いっぽう中・下位公務員は政権が交代しても責任追及を受けないことが重要だと考え、現政権の批判のある政策には積極的に協力することを敬遠する。次官級の元高官は次のように語る。
「(官僚社会では)上層部と下層部の分化が起きている。上層部は新政権に適応して最後の昇進をしなければならないから、より政権の顔色をうかがうようになる。しかし現政権の任期内に勝負をかけようとする上層部とは異なり、中・下位公務員は政権の国政目標より内部の評判の方に気を使い、後で生じるかもしれない政治・司法的問題を避けることに注力する雰囲気が強くなっている。かつては大統領室で勤務するというのは有能さの象徴だったが、今はそうではない」
5年という限られた任期内に政策の成果を上げるためには、官僚の自発性を最大限に引き出す必要がある。そのために最も重要なのは人事だと元・現官僚たちは言う。当然のことだが、能力にもとづいた人事こそ官僚社会の責任感を高める。外部からやってくるにしろ内部で昇進するにしろ、能力のある人物を長官に任命し、長官を中心として仕事にあたる雰囲気を作らなければならないということだ。以前は、長官に起用された官僚の大半は政治的傾向とは関係なく「それだけの能力を備えた人々」と評価された。今は必ずしもそうではない。それを大統領の哲学をよく知る次官で埋めようとしても限界がある。
良い人物の抜てきと誤った人事との果敢な交代の困難さには、人事聴聞会という負担がかなり作用しているようだ。人事聴聞会制度が、国民からの信頼と有能さを共に備えた人物を選ぶためという当初の趣旨から外れているのは事実だ。行き過ぎた政治攻撃の場へと変質してしまったことで、若干の個人的な傷があるだけでも就任できない事例が相次いだと思ったら、今は深刻な傷や業務能力に対する疑問が提起されても、大統領が任命を強行するものだから、単なる「通過儀礼」となってしまった。
人事聴聞会で候補の生死を決めるのは、もはや有能さや道徳的クリーンさではない。陣営の支持がどれほど確固たるものかの方がはるかに重要だ。人事聴聞会が激しい陣営対決の場となってしまえば、長官候補はいくら道徳的な欠陥がある人や無能な人でも生き残れてしまう。大統領がそれを政治的に利用しようとした瞬間、人事は歪曲される。大統領は人事聴聞会の本来のガイドラインに沿った人物を選ぶのではなく、支持者にはっきりと「味方」だと認められうる人物を長官候補として指名するようになる。どうせ仕事は次官がやればよいのだから、長官は陣営を結集させる役割さえうまく果たせればよいと考えるわけだ。聴聞会の場に立った長官候補たちが攻撃的に国会議員の質問に反論したり、強硬な発言をしたりするように年々なってしまっているのはこのためだ。長官候補が聴聞会の途中で席を立って戻ってこないという前例のない事態が起きたのも、同じ流れの中にある。
「官僚の政治化」には、明確な国政運営の方向性と政策目標を提示できない大統領に重い責任がある。終身政権を追求した朴正熙(パク・チョンヒ)の時代とは異なり、任期が5年の大統領ははるかに能動的に官僚を率いなければならない。一人の力ですべてはこなせないのだから、官僚が従うことができ、官僚を制御する力量のある人物を長官や次官などの主要な公職に抜てきすることが緊要だ。
1960~80年代に官僚が優れた成果をあげられたのは、先進国の経験をベンチマーキングできたことが少なからず作用した。後発国としての長所を韓国の官僚がうまく利用したわけだ。先進国レベルとなった今は、官僚が以前のように特別な政策のアイデアを出すのは容易ではない。その役割は大統領と政権勢力が果たさなければならない。「それでもそれなりに有能な官僚制があるのだから、誰が政権に就いていようが政府は何とか回っていくだろう」というのは昔の話だ。大統領が明確な国政目標を官僚に提示するとともに、それを推し進める能力を示すことが重要だ。結局、大統領制においては大統領が核心なのだ。
パク・チャンス|大記者