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[寄稿]「米国にも慰安婦博物館・アーカイブを作るという“願い”、引き継ぎます」

登録:2022-07-02 08:58 修正:2022-07-02 10:00
故イ・ドンウ ワシントン挺身隊問題対策委員会初代会長を悼む 
2019年10月、米国ワシントンDCで除幕された「平和の少女像」の横に立つ故イ・ドンウ初代会長=ワシントン挺身隊問題対策委員会提供//ハンギョレ新聞社

 昨年の春に急に亡くなった母の遺品を整理するため、しばらく韓国に帰国していた間に、また悲しい知らせを聞かなければならなかった。14年という長き年月、同志としてともに草の根運動をした先輩であるイ・ドンウさんが天国に召された。体調が良くないとの知らせを聞いていたので、米国に戻ったらフロリダ州タンパの自宅を伺おうとしていたが、間に合わなかった。

 最後にイ・ドンウさんに会ったのは、2019年10月、ワシントンのコリアタウンのアナンデールで、「平和の少女像」の除幕記念式を開いた時だった。多くの後輩活動家たちをほめながら、杖をついて祝辞を述べていた姿が鮮やかに記憶に残っている。2017年には、彼女が自身の活動記録を集めていた「ミニアーカイブ」(そう呼んでいた)を見に自宅に伺った。その時も、慰安婦被害者女性たちのインタビューテープなどをまとめ、きちんとした映像作品を作るという情熱の意志を示された。

 イ・ドンウさんの活動は、個人的な事情を越えて、米国の韓人社会でも重要な地位を占めている。とりわけ、彼女が私費を投じて創立した「ワシントン挺身隊問題対策委員会」は、米国全域に広がっている韓人同胞が協力して成し遂げた初の成功した市民運動として、重大な歴史的意義がある。

 イ・ドンウさんは、3人の子どもの母親として家庭も大切にし、移民第1世代としてガラスの天井を打ち破り、世界銀行でキャリアを積み、教会の長老としても献身された。しかし、その中でも最も意味のある献身は、還暦間近に跳び込んだ日本軍慰安婦問題に違いない。安定した老後年金をすすんで放棄し、世界銀行を早期退職し、その退職金を慰安婦問題の解決に費やした。

1992年8月、スイスのジュネーブで開かれた国連人権小委員会に参加したファン・クムジュさん(左側)とイ・ヒョジェ挺隊協共同代表(右側)。ファンさんはその年の11月に米国ワシントンを訪問し「日本の慰安婦への蛮行」を証言した=写真・正義記憶連帯提供//ハンギョレ新聞社

 米国での慰安婦人権運動は、1992年11月、元慰安婦のファン・クムジュさん(1922~2013)の米国訪問で始まった。ファンさんはワシントンの韓人メソジスト教会で開かれた「証言の夜」に出席し、その時の証言が「FOX5ニュース」で放映されたことによって、慰安婦の歴史は、イ・ドンウさんの表現どおり「爆弾のように」ワシントン地域を強打した。

 その時のファンさんの訪問は、韓人メソジスト教会の女性伝道会と正義記憶連帯(旧・挺身隊問題対策協議会)創立代表である梨花女大学のイ・ヒョジェ教授、ユン・ジョンオク教授の教え子たちが主導した。1920~30年代に梨花学堂(梨花女子大学の前身)でまかれた女性の権利に対する自覚の種が、太平洋の反対側でも花を咲かせ、実を結んだのだった。ファンさんの証言から1カ月後の同年12月12日、韓人同胞たちはワシントン挺身隊問題対策委員会(以下、挺隊委)を創立し、米連邦政府に非営利団体として登録した。創立会員たちは、女性であり、英語と韓国語そして日本語ができるイ・ドンウさんを初代会長に選んだ。

1993年、米国のワシントン挺身隊問題対策委員会のイ・ドンウ初代会長(前列左から2番目)と韓人会員たちが、ホワイトハウスの前で日本の慰安婦犯罪を告発するデモを行っている=ワシントン挺身隊問題対策委員会提供//ハンギョレ新聞社

 イ・ドンウさんは、慰安婦問題を知ることによって、1950年代の韓国で育ちながら見聞きした歴史、日本による植民地支配と朝鮮戦争を経験した世代だけが持つ切実な叫びのようなものを感じたと語った。韓国の家父長的な社会不平等と、日本帝国主義・植民地主義・軍国主義の偏見は、米国内の有色人種の移民たちが味わっていた差別と悔しさに重なり、いっそうの共感につながったのだ。

 イ・ドンウ初代会長の最初の使命は、慰安婦問題を米国社会に広く知らしめることだった。それも、影響力のある人々、日本政府に物言える地位にいる人々、すなわち、連邦議会議員や司法省と国務省などの官僚たちに、その歴史を知ってもらうということだった。草の根運動の方法として知られている手段、すなわち、連邦議会議員に出紙を出す、訪問する、フォーラムや展示を企画する、大規模なデモや集会を組織する、出版する、記者会見などを通じて、有権者として権利を行使しようと主導した。被害者女性たちを招待し、全米で巡回証言会を開き、インタビュービデオ、パンフレット、アーカイブ資料も作った。司法省のイライ・ローゼンバウム戦争犯罪調査代表は、挺隊委が提出した資料をもとに16人の日本人戦争犯罪者を指名し、米国への入国禁止令を出しもした。

2000年、米国連邦議会で人権賞を受賞した慰安婦被害者女性たちと一緒に記念写真を撮った。前列右からイ・ヨンスさん、ファン・クムジュさん、キム・サンヒさん、キム・ウンレさん、後列左側2人目がイ・ドンウ初代会長、1人とばしてキム・スンドクさん=挺隊委提供//ハンギョレ新聞社

 何よりも大きな成果は、2007年に米下院で「慰安婦決議案121号」が通過したことだ。慰安婦決議案は、1992年からの15年間の草の根運動の結果であり、挺隊委をはじめとする多くの人たちの努力が凝集した成果だった。その結実の最初の種をまいた人はイ・ドンウ初代会長だとあえて言いたい。もちろん、被害者女性たちの勇気と大きな決断が先であり、正義記憶連帯など韓国で慰安婦運動を始めた人たちもいた。

 今では米国を越えて国際社会に広がった慰安婦問題は、人権運動でありフェミニズム運動であり、何より、民主主義と平等な社会への願いから出た運動だ。米国で叫ばれた慰安婦運動の歴史は、新たな1ページを開き、多種多様な姿で激しく燃えている。それは誰かが始めたから可能だったのであり、新たなパラダイムを期待している。

6月16日(現地時間)米国フロリダ州タンパの韓人連合メソジスト教会で故イ・ドンウ初代会長の葬儀が行われた=写真:イ・インホン牧師提供//ハンギョレ新聞社

 2016年にニューヨークのホロコースト博物館の招待を受けた際のイ・ドンウさんの言葉が、今でも耳に残っている。一緒に旅行した電車の中で、米国にも慰安婦博物館とアーカイブを作らなければならないと説破したその声は、その時挺対委の会長に就いていた私にとって、大きな使命として聞こえた。しかし、常勤者は1人もおらず全員がボランティアで活動している私たちの団体の力だけでは、はるかに及ばないことだった。ようやく「米国慰安婦運動史」という1冊の本を出すことができ、ドキュメンタリー映画1編を作ることができた。先輩の望みであり、私の課題であるその計画を、後輩活動家たちが成し遂げてくれることを期待するばかりだ。

イ・ソンシル|ワシントン挺身隊問題対策委員会理事長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/1049223.html韓国語原文入力:2022-07-01 21:50
訳M.S

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