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「6月抗争の炎」李韓烈さんの母ペ・ウンシムさん死去…息子の遺志継ぎ民主化の闘士に

登録:2022-01-10 02:11 修正:2022-01-10 07:29
「民主主義はただやって来たのではなく、血と涙と汗にまみれてやって来た」
故李韓烈烈士の34回追悼行事がソウル西大門区の延世大学の「韓烈の園」で行われた昨年6月9日午後、ペ・ウンシムさんが発言している=資料写真//ハンギョレ新聞社

 1987年の6月民主抗争の導火線となった故李韓烈(イ・ハニョル)烈士の母、ペ・ウンシムさんが9日に死去した。享年82。

 ペさんは3日に心筋梗塞で倒れ、病院で治療を受けていたが、8日退院していた。退院後は無理なく会話を交わすなど健康を回復したかに見えたが、翌日に再び倒れた。家族がペさんを発見し、すぐに病院に運んだものの、再び起き上がることはなかった。息子の意志を継いで民主化と人権のために闘ってきたペさんは、息子の死から35年を経て息子のもとへと旅立った。他の地域に住む家族が全員病院に到着し次第、解剖するかどうかや葬儀の手続きなどを決める予定だという。

 1987年6月9日の李韓烈さんの死は6月民主抗争の炎となり、全国へと広がっていった。息子の死はペさんの人生を完全に変えた。平凡な主婦だったペさんは、息子の果たせなかった夢のために民主化運動に身を投じた。ペさんは「ハニョルの名において」全国民族民主遺族協議会(遺家協)に参加し、全泰壱(チョン・テイル)烈士の母、故イ・ソソンさん(1929~2011)や朴鍾哲(パク・ジョンチョル)烈士の父、故パク・チョンギさん(1928~2018)らと共に、民主主義と人権のためのデモや集会が行われる現場なら全国どこにでも駆けつけて協力した。

 ペさんは遺家協の会長を務め、1998年から422日間にわたって国会前のテントで座り込みを行い、民主化運動補償法と疑問死真相究明に関する特別法の制定を引き出してもいる。2009年には、龍山(ヨンサン)惨事のことを聞いて被害者の家族と共に涙を流し、龍山汎対策委員会の共同代表を務めて協力した。ペさんは民主化と人権運動に献身した功労が認められ、2020年6月に6・10民主抗争33周年記念式で文在寅(ムン・ジェイン)大統領から故イ・ソソンさんらと共に国民勲章牡丹章を授与された。ペさんは受章の席で「33回目の6月10日に送る手紙」を朗読し、「二度と民主主義のために人生を犠牲にし、苦しむ家族が生じない国になってほしい」と切実な願いを語っている。

 ペさんは2018年6月、李韓烈さんが通っていた延世大学と李韓烈記念事業会が共同主管して延世大学で開かれた李韓烈烈士第31回追悼祭で、「民主主義はただやって来たのではなく、人々が血と涙と汗にまみれて、一歩ずつやって来た。(烈士たちの)死は無駄にならず、歴史に長く残ると信じている」と述べている。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1026526.html韓国語原文入力:2022-01-09 10:48
訳D.K

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