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「遺骨も探せなかった息子…全斗煥は一言もなく死んでしまって悔しい」

登録:2021-11-25 09:20 修正:2021-11-25 10:13
[全斗煥死亡―謝罪を受けられなかった人たち] 
「5・18行方不明者」当時17歳のイム・オクファン君の母、キム・ジンドクさん
5・18民主化運動当時、息子が行方不明になったキム・ジンドクさん=本人提供//ハンギョレ新聞社
全斗煥死亡―謝罪を受けられなかった人たち//ハンギョレ新聞社

 「死ぬ前に息子の遺骨のかけらでも探さなければならないのに…。全斗煥(チョン・ドゥファン)が一言もなく死んでしまって悔しくもどかしい」

 全羅南道高興郡(コフングン)に暮らすキム・ジンドクさん(77)は24日、本紙の電話取材に対し、怒りの混じったため息をついた。キムさんの息子のイム・オクファン君(当時17歳、朝鮮大学付属高校2年)は1980年5月、高興の家に向かうために友達と一緒に自炊生活をしていた寺を発ってから今まで行方が確認されていない。

 キムさんは「1980年5月、光州が大騒ぎになっているという知らせを聞いて、毎日オクファンと電話で話した。19日の夕方、『母さん、僕は大丈夫だから心配しないで』とオクファンが言ったが、これが最後の電話だった」と振り返った。

 キムさんはイム君と電話で連絡がつかず、22日に光州を訪れた。バスが通っていなかったので和順(ファスン)から歩いた。イム君が滞在していた寺で、「オクファン君は21日に実家に帰ると言って出ていった」という話を聞き、キムさんはその場に座り込んでしまった。イム君が向かった方向の朝鮮大学の裏山をくまなく探したが、息子の痕跡は見つからなかった。全南大学病院や朝鮮大学病院など、光州全域を足がはれるほど歩き回ったが、息子の姿は見当たらなかった。

 家族はイム君が死んだと思い、6月2日に死装束を用意して再び光州を訪れた。故郷の村の人たちもイム君探しに加わった。市民の遺体が安置された旧全羅南道庁前の尚武館を訪れたが、すでに遺体は片付けられた状態だった。再び朝鮮大学の裏山を捜索した。戒厳軍は入山許可を出さなかったが、警察に事情を説明し、山に登った。戒厳軍が捨てた焼酎の瓶、パンの袋、棒などがあるだけで、息子の行方は分からなかった。仮埋葬でもされたのかと思い、素手で地面を掘り回ったが、無駄だった。

5・18民主化運動当時、行方不明になったイム・オクファン君=国立5・18民主墓地管理所提供//ハンギョレ新聞社

 後日、イム君と一緒に自炊部屋を発った友人は、山を越える途中で銃声が聞こえてきて、皆散らばって逃げたのがイム君との最後だったと話した。

 父親のイム・ジュンベさんは5・18行方不明者家族会の会長を務め、キムさん家族は他の5・18犠牲者遺族とともに「息子を捜し出せ」と光州、ソウルなどを回りながら闘争をはじめた。そのたびにキムさん家族を監視していた町役場の職員は「行くな」と止めた。キムさんには、町役場の職員も全斗煥も同じく悪者に見えた。

 5・18研究者らはイム君失踪を、鎮圧軍として光州に来ていた第7空輸旅団と関連がある可能性があるとみている。戒厳軍は1980年5月21日の旧全羅南道庁前の集団発砲後、市民の抵抗が激しくなると、光州外郭の遮断作戦を展開して光州を孤立させた。朝鮮大学に駐屯していた第7空輸旅団(将校含め872人)はこの日午後、朝鮮大学の裏山に沿って光州~和順の境界地域であるノリッジェ峠に移動した。歩いて和順の方へ向かおうとしたイム君の動線と一致する。

 せめて息子の遺骨でも見つけて日の当たる場所に埋めてあげたいという思いだけだというキムさんは「夫は『生きている間にオクファンの骨も探せないまま死んでしまうだろうな』という言葉をよく口にしていた。私たちのように力のない人々は苦痛の中で生きているのに、全斗煥は安らかに死んだと思うと、怒りで胸が張り裂けそうだ」と話した。

 一方、光州市が認めた5・18当時の行方不明者は計84人で、このうち6人は2001年に墓地を移転する過程で身元を確認したが、残り78人は以前として不明だ。特に、無縁故の行方不明者は正確な現状すら分かっていない。

キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1020709.html韓国語原文入力:2021-11-25 07:37
訳C.M

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