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[寄稿]「鳳梧洞戦闘」独立軍の母、キム・ソンニョ女史を称える

登録:2021-03-01 11:09 修正:2021-03-01 12:35
祖母の命日に捧げる孫娘の文 

鳳梧洞基地をつくった崔雲山将軍の妻 
独立軍の娘で14歳の時に結婚 
「ミシン部隊」つくり数千人の軍服製作 
愛国青年たちの食材調達・供給を受け持つ 
「これまで有功者として叙勲を受けていないことが恥ずかしい」
祖母キム・ソンニョ女史(1893~1975)は独立軍の子孫・妻であり、自身も独立運動家だった。1960年に撮った家族写真。前列右から2人目がキム・ソンニョ女史、3人目が筆者、後列左から2人目が父チェ・ボンウ=チェ・ソンジュ通信員提供//ハンギョレ新聞社

 もうすぐ三一節(独立運動記念日)と祖母キム・ソンニョ女史の命日がくる。1975年3月3日、私が高校3年の新学期を迎えた日、生涯鳳梧洞(ポンオドン)・青山里(チョンサンリ)武装独立戦争の歴史を正すために尽力した祖母が、夫の崔雲山(チェ・ウンサン)将軍の叙勲を見ることができないまま亡くなった日だ。崔雲山将軍は、その2年後の1977年になって独立有功者として認められた。長男である父(チェ・ボンウ)をはじめ私たち家族はその時、祖母のことを思って長いこと胸を痛めた。ただ、祖父の崔雲山将軍が遅くはなったが叙勲を受けたので、もうしこりが一つ解けたのだから残りは学者や専門家の役目だとして振り返らないことにした。

 そして2015年7月4日、父(2001年死去)の命日に集まった5人兄弟は「わが家の歴史がまさに韓国独立運動史の重要な流れなのだから、これ以上放置してはいけない」という考えで意気投合した。その年の9月に初めて訪問した北満州の鳳梧洞(現中国吉林省汪清県)で、私たちは1997年に父が探し出した曽祖父チェ・ウサムの墓所を確認することができた。2016年には、早くから朝鮮王朝末期に高宗が任命した延辺の道台(道知事)を務め、独立軍指導者の「振東(ジンドン)・雲山・治興(チフン)・明鐵(ミョンチョル)」の4兄弟を育てた曽祖父の墓所に碑を建てようとした父親の約束を守った。

2016年10月、子孫が北満州の鳳梧洞村にある曽祖父チェ・ウサムの墓所を訪れ記念碑を建てた。写真はチェ・ウサムの次男の崔雲山とキム・ソンニョ夫妻の孫で、右からチェ・ユンジュ、フンジュ、ソンジュ(筆者)、ヒョンジュ、ウンジュ=チェ・ソンジュ通信員提供//ハンギョレ新聞社

 これをきっかけに、30年余り言論分野の市民社会活動を言い訳に家族史に背を向けてきた私も、遅まきながら満州武装独立戦争史を正しく残す仕事に飛び入り、歴史を改めて勉強している。特に、歴史学界がまとめた鳳梧洞独立戦争史とキム・ソンニョ女史の証言が衝突する部分が多かった。ここ数年間、史料調査を通じて再確認する作業を行っている。実際、最も重要な基準は、祖母が生前に聞かせてくれた、生真面目だった本人たちの人生だ。そして驚くべきことに、100年前の史料が、本人の残した記録と証言が正しいということを毎回証明している。

 この過程を通じて改めて分かったのは、鳳梧洞独立軍基地と祖母の活躍ぶりだ。夫の崔雲山将軍が鳳梧洞に集まってくる愛国青年たちを訓練させ、精鋭独立軍に育成した時、祖母は彼らの衣食を世話した「満州独立軍の母」だった。

2016年に発足した崔雲山将軍記念事業会の理事を務める筆者は「鳳梧洞戦闘の隠れた英雄」である祖父崔雲山と祖母キム・ソンニョの業績を発掘し、2000年に本を出版した=フィロソフィック提供//ハンギョレ新聞社

 咸鏡北道会寧(フェリョン)で生まれた祖母は、すでに独立軍の娘だった。祖母が幼い頃、独立運動のためにロシアに渡った父と兄は、その後永久に帰ってくることができなかった。祖父崔雲山も、清との国境紛争の時、武力衝突も辞さなかった民族主義者のチェ・ウサムの次男だった。そのような2人の結婚は、運命で結ばれた歴史の呼び掛けだったのではないだろうか。

 14歳だった1907年、婚姻と共に新韓村・鳳梧洞の建設に参加した祖母は、夫が馬賊から朝鮮の同胞たちを保護するために約100人の鳳梧洞私兵部隊を創設すると、軍部隊の生活を受け持った。愛国青年が数百人に増え、鳳梧洞の森を伐採し新しい練兵場を作る時も、伐採した木で兵士が泊まる大型の兵舎を建てる時も、自宅の周りに巨大な土城を築いて四方に大砲を配置し、1915年に本格的な独立軍基地を完成させる時も、すべての時を共にしながら父や兄の面倒を見るように独立軍の日常を世話した。

 祖母は北間島と沿海州のすべての独立軍が力を合わせて統合独立軍団「大韓北路独軍部」を組織した時、8台のミシンを用意して数千着の独立軍の軍服を作った「裁縫部隊の大将」だった。軍服を十分に作っておいたおかげで、鳳梧洞戦闘の時、カカシに着せて日本軍の目に止まるように山頂に配置する偽装作戦も使うことができた。また、鳳梧洞周辺に分散して駐屯した各連隊へ、醤油、味噌、コチュジャンに至るまで、すべての食材を惜しみなく配給した「気前のいい兵站隊長」だった。鳳梧洞には、どんな危機にも屈することなく一糸乱れずに動いた「女丈夫」のキム・ソンニョと女性たちがいた。1919年3月26日と5月18日、崔将軍と兄弟が汪清県百草溝で“万歳デモ”を主導した時も、祖母は女性たちを率いて参加した。

 「われわれ独立軍にご飯を作り、独立軍の軍服を作り、独立軍の生活を一手に引き受けてくださったこの方こそ、真の勲章を受けなければならない独立軍です」 。1960年代初め、崔将軍の部下だったある独立軍人が祖母を訪ね、挨拶しながら語った言葉だ。

鳳梧洞戦闘の主役、洪範図将軍(左)と崔振東将軍(右)が1922年1月、モスクワ極東民族大会に参加した姿。崔振東は筆者の祖父・崔雲山将軍の兄で、日本憲兵隊の飛行場の提供要求を断って連行され、拷問の後遺症で1941年11月に死去した=パン・ビョンリュル教授提供//ハンギョレ新聞社
1922年1月、モスクワ極東民族大会の写真。崔振東将軍の子孫で筆者の伯母であるチェ・ギョンジュは、真ん中の人物が崔雲山将軍だと証言した。崔雲山は生涯で計6回も獄中生活をし、兄と同様に拷問の後遺症で、1945年7月に死去した=パン・ビョンリュル教授提供//ハンギョレ新聞社

 しかし82歳で亡くなるまで、私は祖母が昔のことを自慢したり誇張して話すのを聞いたことがなかった。ただ淡々と、自分の役割を説明するだけだった。そのためか、孫娘である私でさえも、祖母が10代から50代までの人生の黄金期に鳳梧洞の中心を守りながら崔雲山将軍の独立戦争を完成させたその長い歳月、献身を当然のことのように思っていた。

 今になって祖母の言葉をもとに鳳梧洞の歴史を改めて書きながら、私は祖母の名前の前に「独立軍」という呼称をつけるべきだと考える。鳳梧洞の住民はほとんどが独立軍とその家族だった。時期によって人数の加減はあり、独立軍がいくつもの地域に散って滞在することもあったが、鳳梧洞はいつも北間島の独立軍と武装闘争の中心だった。そして鳳梧洞の中心に祖母がいた。残念ながらキム・ソンニョ女史は、いまだ独立運動家としての叙勲を受けていない。恥ずかしいことだ。

チェ・ソンジュ|ハンギョレ株主通信員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/media/984587.html韓国語原文入力:2021-02-26 19:18
訳C.M