原文入力:2009-12-10午後09:38:43
[初公開]朝鮮族の目で見た‘延辺文化革命’
イム・ジョンオブ記者
←武力衝突過程で鼻を打ち目を刺される傷を負った強打派所属の紅少兵(年齢が幼い紅衛兵)たちの姿。強打派は朱德海延辺自治州州長とチェ・ソンニン 延吉県第一書記を擁護する保守派だ。
中国文化大革命(1966年5月~76年10月)当時、朝鮮人自治州の延辺で広がった武力衝突現場を撮影した写真が大量に公開された。
中国に行き来して活動する写真家リュ・ウンギュ氏は自身が保有した6千枚余りの写真の内の一部を初めて<ハンギョレ>に公開した。これらの写真はリュ氏が朝鮮族のファン・ヨンイム(1936~2006)氏から1999年にフィルムの状態で一括取得したものだ。ファン氏は文革当時、武力衝突現場に最も近く接近できた人物だ。フィルムを譲渡し、黄氏は自分の死後に公開してくれることを頼み、リュ氏はファン氏の死後3年ぶりに約束を守った。写真には当時の紅衛兵間の激烈な衝突とその結果による人命および財産上の被害像が赤裸々に現れている。
延辺での文化大革命は韓半島と境界を隣接しているために、階級闘争の他に民族問題が複合的にからまったことが特徴。
毛沢東の甥の毛遠新が江青の指示を受け延辺自治州州長打倒を叫び、紅衛兵間の派閥争いが激しくなった。1968年7月末から8月まで延吉市の‘8・2’,‘8・4’事件をはじめ、開山屯,龍井,汪清,イラング,琿春などの地で銃撃戦が起き数百人の死傷者を出した。少数民族に対する偏見を持った一部の人々がこれを‘反逆暴動’と規定したことにより民族問題に拡大した。
混乱を収拾するために人民解放軍が投入されたが、これらが毛遠新を支持し事態がさらに悪化した。‘階級大悟整理’過程で数多くの朝鮮人幹部が変節者,日帝特務,反革命分子などとされ虐待を受けた。この時に殴打されて死んだり負傷して無念に投獄された人々が2千人余りに達する。また汚名を恐れた人々が自ら朝鮮語または抗日関連文書を燃やし、大部分の資料が滅失された。これによって民族意識が強かった延辺の雰囲気が変わり、朝鮮人たちは‘中国内朝鮮族’に馴致されたという評価を受ける。リュ氏は早ければ年内にも120枚余りを選び写真集として出す予定だ。
イム・ジョンオブ選任記者blitz@hani.co.kr
←1966年8月5日、毛沢東は<北京日報>に "司令部を爆撃せよ" という文を載せ劉少奇と鄧小平を‘党内資産階級司令部’と指摘した。劉少奇は69年11月12日獄死した。
←1967年6月21日、龍井体育場照明施設競技場で2反乱派組織間に武力闘争が初めて起きた。この事件で70人余りが負傷し10人余りが重傷を負った。写真はこの日、反乱派たちがトラックに乗り競技場に移動する場面。
←1976年9月9日、毛沢東主席が死亡し文化革命も終わった。写真は延辺自治州で挙行された毛主席追慕大会。中国語の下に書かれたハングルが異彩を放つ。
←延吉県賓館(ホテル)で引き回しの刑罰を受ける朱德海側の人々。左からイ・ヨンホ(朝鮮族)宣伝部強打代表,ワン・チュンヘ(漢族)技術廠強打組織,パク・ヨンイル(朝鮮族),チェ・ソンニン(朝鮮族)延吉県第一書記,クォン・ヨギョン(朝鮮族)延吉県県長,イ・ジュンネ(朝鮮族)延吉県県尉チェモ政治部主任.
←1976年5月龍井2中紅衛兵らが‘資本主義の道に進む執権派’を叩き出せと闘争準備をする場面。
←龍井民声街西側の延吉県革命委員会の防衛に立つ3269部隊所属人民解放軍。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/392668.html 訳J.S