戒厳軍の銃に撃たれ夫を亡くしたイ・グィイムさんの「40年」
ひとりで手あたり次第働き生計を立て
「生活苦で保育園にしばし子どもたちを預けたのに」
3カ月後に訪ねると、突然フランスに養子に出されていた
「元気で暮らしているという知らせでも聞ければ…」ため息
5・18光州(クァンジュ)民主化運動がはや40周年を迎えるが、完全な真実究明と責任者処罰を求める声は依然として残っている。ハンギョレは新軍部のむごい暴力によって人生がもつれた人々の話を▽別れ▽苦痛▽忘却▽懺悔▽復活の5つのキーワードに分けて聞いた。市民だけでなく、命令に従って光州に投入された“普通の軍人”たちも歴史の被害者であり、彼らの荒い息づかいはいまも現在進行形だ。40年目の5・18の5つの話を、3回に分けて掲載する。
その年の5月、夫はあっけなくこの世を去った。1980年5月21日、光州錦南路(クムナムロ)で戒厳軍の銃に撃たれて死亡した。市民に向けて集団発砲を行った日だ。
先月18日、京畿道安養(アニャン)で会ったイ・グィイムさん(67)は「夫が死んだと聞いて、嘘だと思った」と話した。彼女は二人の息子を連れて羅州(ナジュ)栄山浦(ヨンサンポ)の義理の姉の家におり、後れて悲報を知った。「光州公用ターミナルからバスに乗って栄山浦に行く時までも光州がそんな騒ぎになっているとは思いませんでした」。戒厳軍の統制で足止めされ、遺体の収拾もできなかった。
両親を早く亡くし、光州に住んでいたイさんは、1973年に知人の紹介で夫(故チョン・ハックン)に会った。京畿道富平(プピョン)で新婚生活を始め、1975年と1977年に続けて息子が生まれた。1980年3月頃に光州に引っ越し、借り家で生活していた間に5・18を迎えた。市民がアジア自動車工場(現・起亜自動車光州工場)から軍用車を運転して道に出たとき、そこに一緒にいた。イさんは「家族が現れなかったため夫の遺体は何の葬儀も行わずに望月洞墓地に埋葬された」と語った。
一人になったイさんは手あたり次第仕事を探しては働き、二人の息子を育て生計を立てていった。リヤカーを引いて蒸しトウモロコシを売り、ひよこの行商もした。家を借りるお金がなく、農城洞(ノンソンドン)の裏山にテントを張って数カ月間暮らしたこともある。長男が小学校に入学したが、詐欺にまで遭い袋小路に追い詰められた。境遇を気の毒に思ったある教会の牧師が、イさんに木浦(モッポ)にある保育園(孤児院)を紹介した。イさんは「中学校まで卒業させてくれるという話を聞き、何とか厳しい時期だけでも乗り越えようと、臨時で子どもたちをそこに預けた」と話した。
その後、人生の糸が絡まってしまった。イさんは3カ月後の1983年2月、子どもたちの服を買って保育園に向かった。チョン・ミンジュ(75年9月17日生まれ)・ミンソン(77年12月20日生まれ)の二人の子どもはそこにいなかった。保育園は「子どもたちをソウルに行かせた」と言った。
「びっくりして『なぜソウルに行ったのか』と聞いたら、ソウルのホルト児童福祉会を通じて養子に送るというんです」。青天の霹靂のような言葉を聞き、狂ったようにソウルへ探しに行ったが、二人の息子はすでにフランスへ発った後だった。「私は養子に送るとも言っていないのに、同意書を書いたことになっていたんです。私の書体ではありません。その時は私はハングルも書けなかった頃でした」
生きる意欲を失ったイさんは、心も体もすっかり弱くなっていった。幻覚が見え長く患うようになり、巫堂(ムーダン)を呼んでクッ(神を憑依させお告げなどを行なう儀式)をするほどだった。そのうち、ある男性に会った。重装備の技師だった二番目の夫と結婚を約束し、全羅南道宝城(ポソン)の夫の実家に行った。しかし、一度結婚に失敗したことを知った夫の両親が結婚に反対した。夫に何も告げず、妊娠4カ月の身で家を出た。涙を堪えながら一人で娘を生んだイさんは、自分の姓をつけ娘を戸籍に載せた。「生涯お父さんと一度も呼べずに暮らすことになった娘にいつもすまないと思っています」
5・18は彼女の人生を一変させた。5・18の遺族らとソウル延禧洞(ヨンヒドン)の全斗換(チョン・ドゥファン)元大統領の自宅まで駆けつけてデモを行ったりもした。そして「殺すこともできず、何の力もない」自分を恨みもした。25年前に安養(アニャン)に引っ越し、数年間食堂で働いた。幸い、娘は勉強ができ、奨学金を受けて大学の英文学科を卒業した。病院の非正規職の清掃員として働くイさんは、週末にはおかずを作って娘に会いにソウルに行くのが唯一の楽しみだ。「娘がいなかったら世の中が絶望的で、どう持ちこたえられたかわかりません。娘のために生きる理由ができたんです」
もちろん胸の苦しさは変わらない。二人の息子のためだ。イさんは「胸がつかえたようにいつもしこりが残っていることがある」と言った。「長男は当時、物心がついていました。『お母さんが病気だから、医者になって治してあげる』と保育園の職員に言って(養子に)行ったという話を聞いて、どれほど泣いたかことか」
20年前、ソウルのホルト児童福祉会を訪ねたが、次男の近況だけをうっすら確認したという。「正直、今は二人の息子の住所を知っても、私にはどうすることもできません。ただ二人の息子が元気で暮らしているという知らせだけでも聞けたらと思います」