「叔父は仁川(インチョン)刑務所で行方不明になったと聞いていたのですが、『済州4・3事件追加真相調査報告書』には違うことが書いてあり、訪ねてきました。この記録は正しいんですか」
今月1日、済州道西帰浦市南元邑衣貴里(ソグィポシ・ナムウォヌプ・ウィグィリ)のキム・ジョンヨンさん(64)は済州4・3平和財団を訪れ、上気した表情で叔父の消息を尋ねた。キムさんはこれまで、4・3当時、叔父(キム・ユニルさん)が仁川刑務所で受刑生活をしていて行方不明になったと聞いていた。しかし、財団が発行した追加調査報告書には、叔父は朝鮮戦争中に予備検束され、その後、行方不明になったことになっている。
キムさんは「1977年に海兵隊に志願して合格したが、管内の支署から2回も訪ねてきて身元照会をされた。当時、教鞭を取っていた父が『弟(叔父)が4・3で仁川刑務所に行って行方不明になったが、それ以外は知らない』と言い、警察と言い争いになった」と記憶している。キムさんは「どうして軍に入隊しようというのを取り消せなどと言えるのか」と思い、その後は叔父の行方を知ろうとはしなかったという。
当時、西帰浦初級中学校に通っていたキムさんの叔父は1949年7月、軍法会議で懲役5年の刑を言い渡され、仁川刑務所で服役していたが、朝鮮戦争直後に刑務所から解放され帰郷した。しかし、1950年8月18日に予備検束され、西帰浦農会の倉庫に収監された後、行方不明となった。2007年から2009年にかけての済州空港での遺体発掘で、実に380体以上の遺体が発見されたが、このうち一部の遺体は遺族の遺伝子鑑識などにより、西帰浦地域で予備検束された行方不明者のものであることが判明した。キムさんは「今は叔父の消息を知ってしまったので、採血など遺伝子鑑識によって遺骨を見つけられるよう、あらゆる努力を尽くす」と話した。
済州4・3事件当時、中山間地域の住民は生きるために、ある者は山奥に逃げ、ある者は他の地域に避難した。軍警は残された家族に対して身を隠した子どもや夫、妻などを探し出せと追及し、残された家族を代わりに処刑するいわゆる「代理虐殺」があちこちで起きた。
軍警は1949年3月、「山から下りれば助ける」と言ったが、これを信じて帰順した住民たちは済州港付近の酒精工場などに収容され、違法な裁判により他地方の刑務所に移送された。誰も彼らに罪名や量刑を説明しなかった。彼らは刑務所暮らしを始めてから、ようやく自分たちの罪名と量刑を知った。一般裁判の受刑者約200人と1948~49年の2度の軍法会議による受刑者2350人の計2550人あまりのうち、大半は二度と故郷の土を踏むことができないまま、朝鮮戦争直後に行方不明となった。生き残った遺族たちは「アカの家族」「アカの子孫」というレッテルを貼られ、家族の生死を確認しようという気すら起こせなかった。
財団は、追加真相調査中、邑・面(ウプ・ミョン。行政単位。日本の町村に相当)単位で村落ごとの犠牲者の全数調査を行う過程で、受刑生活中に病死または獄死したものの遺体が引き渡されなかったり、軍法会議で死刑となって銃殺されたものの遺体が見つからなかったり、死の知らせを聞かされたものの遺体が確認できなかったりなど、多数の行方不明者が死亡者として処理されていたことが確認されたと発表している。
済州4・3事件の行方不明者は、2003年に政府が真相調査報告書を作成した当時は3171人だったが、犠牲者や遺族の追加受け付けの結果、昨年末現在で3610人へと増えている。また、財団が追加真相調査を行う過程では、行方不明者数は4255人へと増えている。このうち、他地方の刑務所で行方不明になった2073人を除く1877人(その他の行方不明者305人は除く)以上が、済州道内で行方不明となっていた。
類型別では、討伐隊に連行された後に行方不明になったケースが1022人、武装隊に連行された後に行方不明になったケースが170人で、残りは死刑囚の行方不明者が188人、予備検束された行方不明者が497人だった。
4・3平和財団調査研究室のチョ・ジョンヒ次長(現記念事業チーム長)は「4・3事件の受刑者が当初の刑務所から移監されたケースがあるため、受刑者名簿に記された受刑場所と行方不明になった場所が異なるケースが多数出てきた。今回の追加真相調査の結果、死亡者として届けられていたものが行方不明者となったケースが相当数出るなど、行方不明の実態が具体的に確認された。行方不明者の総数は5千人を超えると推定される。刑務所の服役者名簿や国家記録院の受刑記録などを通じて、行方不明者の行方を探す努力を傾けなければならない」と述べた。